兼続を語る場合、はっきり言ってすごい難しいことがあります。

いろんな説が、存在するなかでどれが正しいのかは想像するしかないからです。

兼続の一番の謎は、三成と仲が良かったのかどうかということです。

兼続は、主君からも家臣からも民からも慕われる存在です。

そして、あの秀吉が直接自分の家臣にしたがったほどの人物です。

だからこそ、難しいんですよね。

三成が野心家であったなら、義を何よりも考える兼続にとってもっとも嫌いなタイプなはずなんですよ。

もし、三成がいい人間だとしたら、秀吉の罪を全て三成がかばってることにもなり、家康が野心家であるということになるわけですね。

しかし、よく考えてみて下さい。

もし、家康が本当に野心家なら、秀吉は家康を討つ勅許を得た上でいくらでも口実をつくって家康を叩くことができるんですよ。

家康の野心に、気づかない秀吉じゃないですからね。

はっきり言った話し、秀吉の死後秀頼陣営に一人でもそういうことに気づく人間がいたら家康の方が、負けていたはずなんですよね。

秀吉は、はっきりこう言っています。

「徳川は、温厚だが真に恐ろしいのは黒田如水である。」

と言っています。

もし、本当に家康に野心があったなら250万石の領土をもつ家康が恐ろしいと言うことになりますよね。

だからこそ、家康野心説は否定することができるんですよね。

ということは、悪いのは三成ということになりますよね。

ということは、兼続と仲がいいという説も否定できます。

何故兼続と仲がいいという説が出たのか、それは関ヶ原の戦いにあるんです。

まず家康は、景勝を上洛させるために手紙を景勝に送ります。

兼続は、直江状を家康に送ることになるわけですが、この時上杉には背後に伊達と最上がいたのですから、正面に家康がいる状況でそんなのを送るということは、つまり最初から三成が動くことをわかっていなければできないということですね。

もちろん家康も最初から目的は、国を乱す三成を誘い出して討つことにあるわけです。

豊臣家の義を、考える以上、兼続がこういう手紙を出してくることも家康には読めていたんですよね。

だからこそ、兼続と三成が仲がいいという説がでたわけです。

実は、ある資料からこの二人は関係がないということがわかったんですよね。

上方で多数派工作に邁進する石田三成は、真田昌幸に数通の書状を送っています。

●7月30日付:三成は昌幸に事前連絡しなかったことを詫び、「会津への使者を、沼田(群馬県)越えで案内してください」と依頼しています。北陸道は前田利長、堀秀治が抑えており、東山道には秀忠軍が駐屯しているためです。津川口、白河口
が通行できないので、連絡は間道を頼らざるをえません。
●8月5日付:三成は昌幸に、信濃の「小諸、深志(松本)、川中島、諏訪」の所領を約束し、「会津(上杉)は佐竹と談合の上、早々に関東へ乱入するよう」と伝言を託しています。
●8月6日付:「家康が上方反転を決意」との情報を入手後、三成が情勢を分析しています。

「内府は上杉、佐竹を敵とし、わずか3、4万人の軍勢で、20日も要する東海道西上を果たせるものではありません。このたび会津に出陣した上方衆(豊臣譜代大名)にしても、内府に従ってはいるものの、20年来の太閤様の恩を考えれば、1年程度の内府の懇切に気持ちを動かし、秀頼様を疎略にして、人質を見捨てることはないでしょう。・・・・・・西上してきても、尾張・三河間で討ち取
る」と楽観視しています。
 だから、「上杉、佐竹、真田は武装することなく、悠々と関東へ入れます」と続きます。

 石田三成が縁戚の真田昌幸に、上杉景勝への情報連携を依頼しました。この事実が、「直江兼続・石田三成共謀説」を否定するものとなります。

兼続宛に送られたとされる三成からの手紙は、江戸時代に作られた偽作だそうです。

それほどのまでに、江戸時代では、この二人の仲が強調されてたということですね。

それと、家康の野心家説も明治政府を正当化するためのものだと言われています。

つまり、三成が家康を恐れすぎるあまりに立たせてしまったという説が有効になるわけですね。

秀吉と家康は、太平の世を作るための同志ですから、信長の意志を実現させるために、だから国を乱す三成を家康は許すわけにはいかなかったんですよね。

知将兼続の功績は、長年敵対していた武田との同盟を、春日山城には2万7140両の蓄えがあり、武田勝頼にはそのうち1万両を送ったと東上野の割譲を約束したとも言われているます。
 最終的には武田勝頼も上杉景勝に鞍替えし、1578年12月には武田信玄の娘・菊姫を上杉景勝の正室に嫁がせ上杉景勝と武田勝頼が同盟しました。

伏兵を忍ばせ新発田家を討ちました。
天正15年(1587年)10月、戦果取り分で争った豪族・新発田重家(しばた しげいえ)の討伐のため
自ら兵を率いて梶城攻略に出兵しました。軍を2つに分け、本隊を東に潜みもう一方ははるか遠の西に
隠しました。北と南側はわざと空けておいて、合図と共に西片の焼草を積み上げていたのに火を放ち
弓と鉄砲で奇襲をかけました。

砦から新発田勢が出てきたが東に潜んでいた直江勢が不意に出てきたので、新発田勢は北や南へ兵は退散したが、もう一方に潜んでいた伏兵が討ち取りました。

一方本隊の方は三方が無人になったのを見計り、あっさりと城内に入り本丸を占領しました。
その後、兼続は合戦上手の名将と知られることになりました。

当時の上杉家臣たちは景勝を「御屋形」、兼続を「旦那」と敬称し、二頭政治に近いものでした。天正14年6月22日(1586年8月7日)、主君・景勝は従四位下・左近衛権少将に昇叙転任するが、兼続も従五位下に叙せられました。
新発田重家の乱では重要な戦略地・新潟を巡り激しい攻防が続いていたが、天正11年(1583年)、当時新潟は湿地帯だった為に豪雨により上杉勢が敗北しました。兼続はこの対策として、川筋が定まらず本流と支流が網の目のように流れていた当時の信濃川に支流の中ノ口川を開削する(味方村誌)など、現在の新潟平野の基礎を造り、着々と新発田勢を追い詰め、天正13年11月20日(1586年1月9日)、新潟城と沼垂城から新発田勢を駆逐しました。これにより新潟湊の経済利権を失った新発田重家は急速に弱体化したのです。

天正8年(1580年)の樋口氏時代の書状は、当時の兼続が景勝の配下としてその意思を代行していたことを示すものであるとされて、若年期よりの兼続と景勝の関わりを実証し得るものとされています。
主君である上杉景勝を補佐し、豊臣秀吉から山城守・山形30万石の贈与などの引き抜き行為を幾度も断るなど、忠義に厚い名将としても知られています。秀吉は「直江兼続は天下の仕置きを任せられる男なり」と評しています。また、兼続について生前親交があった僧侶は「人というものは利を見て義を聞こうとしないものだ。そんな中で直江公は利を捨て義をとった人だった」と評しています。
米沢への転封の際に、上杉家は大変な財政難に陥ったが、兼続は「人こそ組織の財産なり。みんな来たい者はついてこい」といい、召し放ちなどの現代で言うリストラをしていませんでした。米沢はかつての領国の4分の1の石高の地で、上杉家を待っていたのは厳しい暮らしでした。しかし、兼続はここで家臣と家族3万人を養おうと、自らは質素な暮らしをしながら、国造りに取り組みました。
米沢市の郊外には、兼続の指示で土地を開いた武士の子孫が今も暮しており、その家の周りには栗や柿そして生垣にはウコギが植えられています。いずれも食べられる食用の木です。兼続は実用的な植物を植えさせることで、人々の暮らしの助けになるよう心を配っています。この様に農業の振興に尽力した事から、後の元禄年間に著された「四季農戒書」(「地下人上下共身持之書」)の作者に仮託されています。
関ヶ原の合戦後、非常時に備え米沢の墓石を格子型にするよう命令しました。これは兼続の発案と伝えられ、墓石の格子に棒を通し並べることで強固な石塀とするものです。今でも米沢の寺社の墓所にはたくさん格子型の墓石が並んでいます。また兼続の墓石も同様です。
妻・お船の方との夫婦仲は大変よく、兼続は生涯側室を一人も持ちませんでした。

『常山紀談』では「大男にて、百人にもすぐれたるもったいにて、学問詩歌の達者、才知武道兼ねたる兵なり。恐らく天下の御仕置にかかり候とも、あだむまじき仁体なり」とあり、それに続いて「長高く容儀骨柄並びなく、弁舌明に殊更大胆なる人なり」と兼続を高く評価しています。

御館の乱では謙信の遺言を偽造しているとの説があります。謙信が病気に倒れたときに世話役を務めていた直江景綱の継室(未亡人)と共謀して遺言を偽造したことが『上杉年譜』に記されています。

直江景綱後室と樋口与六、声高に御家督はいよいよ景勝公へ御譲り給はんものと申延べしに、管領(謙信)御言舌止まり給へしかども、御納得あれば、只御首うなずき給ふばかりなり。左右列侯の諸臣ら、ここにおいて邦家安堵の思ひをなす。

『上杉年譜』

しかしこの頃の兼続は、史料においても正確な行動が明らかではなく、また身分の上でも上田衆出身の小姓の1人に過ぎないんですよね。
『最上記』によると、長谷堂城の戦いの撤退戦での直江兼続の采配振りを「古今無双の兵」と評しています。
秀吉の死後の遺産分配では陪臣の身でありながら、遺命により太刀(備前長船兼光)一振りを拝領して秀吉恩顧の大名並みの厚遇を受けています。

兼続の話しで一番凄いと思うところは、直接兼続を秀吉が家臣にしようと誘ったところですね。

そして、兼続が秀吉相手に臆することなく説教して、より秀吉に気に入られたところですね。

家康も一目置いていたらしく「長高く、姿容(かたち)美しく、言語清朗なり」と智将として見ていました。

武田家との同盟を成功させた時から、一目おいていたそうです。

兼続が、もし秀吉に仕えていたなら、竹中重治が病死しなければ成したことをやってのけたでしょうね。

それを考えると、兼続の選んだ道は本当に辛いですよね。