景勝と言えば武士の中の武士と言っていいほどの義の精神をもっている武将です。

心から謙信を、尊敬しているからこそなんですよね。

もっとも、景勝の父は謙信と対立してたようですけどね。

謙信の死後、上杉は分裂しました。

そのために、上杉は危機に陥ることになったんですよね。

信長が、死んでくれたおかげで助かったわけですけどね。

そして、一番すごいところは米沢に行く時家臣を誰一人解雇しなかったこと、兼続とともに立て直したことですね。

人物としては、感情を表に出すことがほとんどなかったといわれる景勝は、ある時、飼っていた猿が景勝の座に座って、もっともらしくうなずいたり、部下に指図したりといった自分の物まねをしていたのを目にし、そのあまりの可笑しさに思わず笑みをこぼしたが、これが彼が生涯でただ一度家臣たちの目前で見せた笑顔であったという話しがあります。
景勝の影響により、上杉の軍兵は戦場でも無駄口一つ聞かず静まりかえっていたといいます。大坂冬の陣の際、家康の使者が景勝の陣を訪れましたが、景勝をはじめ誰一人として口を利かず、ただ大坂城を睨み付けていたそうです。報告を受けた家康は「それこそ不識庵(謙信)以来の軍法よ」と賞賛したといいます。
大坂冬の陣の際、彼の近習の一部が黙って合戦の見物に出かけ、竹束に隠れて見ていたとき、そこに景勝がやってきて、これに気づいた近習たちは、竹束の外に出て草むらに行き、景勝に見つからないようにしたといいます。景勝は家来に恐れられていたことがわかる逸話です。
かなりの愛刀家であったとされています。卓越した鑑定眼を持ち、特に気に入ったものから選抜した「上杉景勝御手選三十五腰」と呼ばれる目録にまとめており、収集物には国宝や重要文化財が多数含まれています。
ある時、豊臣秀吉が京都・伏見城(もしくは大坂城)に各大名を招き宴が開かれたが、この宴の会場に前田慶次郎が紛れ込んでいました。宴もたけなわになった頃、慶次郎は末席から猿面をつけ手拭いで頬被りをし、扇を振りながら身振り手振り面白おかしく踊り出し、ついには列席している大名達の膝の上に座っては猿真似をやるという暴挙にまで至ったが、大名達は宴の余興ゆえに咎める者も怒り出す者もいませんでした。しかし、上杉景勝の前に来ると慶次郎は膝に乗ることを避けました。その理由について尋ねられた慶次郎は、「景勝の前に出ると威風凛然としていてどうしても座ることが出来なかった」と語ったという。また「天下広しといえども、真に我が主と頼むは会津の景勝殿をおいて外にあるまい」と慶次郎が後に語ったということから、義を貫く人物は景勝をおいて他にはいないと見込んでの、慶次郎なりの敬意を示した行動だったともいわれています。

『名将言行録』によると会津征伐のとき、徳川家康への追撃を主張する兼続に対して、景勝は「太閤が他界する前、御前で生涯逆心しない旨の起請文を書き、その誓紙を太閤の棺に納めることは天下ことごとく知っている。この度のことは家康から仕掛けてきたので合戦の備えをしたが、家康が江戸に引き返した以上、こちらも会津へ引き返すのが道理と言うものだ。いま家康を追撃すれば先々申してきたことは全て偽りになり、天下最大の悪人として信用を失う」と述べたといいます。
景勝が弾正少弼を謙信から譲り受けた際の2通の書状が、景勝自身の筆跡と同じであるとし、景勝が自己を正当化する為、偽作したとの説(「新潟県史」「上越市史 通史編2 中世」)があります。しかし、上杉景虎が蘆名盛氏にあてた書状には「先日申入れ候如く、少弼曲なきからいゆえ」と景勝を少弼と呼んでいる処をみると、景勝官途は上杉家中において、公の事実と見て間違いないでしょうね。

こういう人だったわけですけど、家康を追撃してさえいれば家康を確実に討てたわけですから、上杉がピンチに立たされた原因は彼にあるといってもいいでしょう。

その後の兼続の苦悩を考えると、辛いものがありますよね。

と言っても、家康が勝ってくれたからこそ250年もの太平の世の中ができたわけですから、結果的には良かったのかもしれませんけどね。