北条早雲は、初の戦国大名です。

そして、あの堅固な城である小田原城を

『北条記』によれば、早雲は大森藤頼にたびたび進物を贈るようになり、最初は警戒していた藤頼も心を許して早雲と親しく歓談するようになった。ある日、早雲は
箱根山での鹿狩りのために領内に勢子を入れさせて欲しいと願い、藤頼は快く許した。早雲は屈強の兵を勢子に仕立てて箱根山に入れる。
その夜、千頭の牛の角に松明を灯した早雲の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放つ。数万の兵が攻め寄せてきたと、おびえた小田原城は大混乱になり、藤頼は命からがら逃げ出して、早雲は易々と小田原城を手に入れたという。典型的な城盗りの物語で、似たような話は
織田信秀の那古野城奪取、尼子経久の月山富田城奪取にもありますが、あの上杉謙信ですら手に入れることができなかった城、それが小田原城何です。

もちろん、相手が違いますし、謙信の場合は宿敵信玄が動くという話しもあったわけですからね。

ただし、それは小田原城攻めをやめさせるためにそうしむけただけで本当に、動いたわけじゃなかったんですよね。

謙信は、もちろんそれを見抜いていたわけですけど家臣達に動揺が走った、信玄の恐ろしさを知ってるだけに当然です。

けど、あの謙信が1ヶ月かかっても落とせなかったのですから、どれだけ堅固な城なのかわかりますよね。

秀吉は、近くに城を作ることで北条に恐怖を与えあっさり決着をつけました。

もちろん圧倒的な力があるから、できたわけですけどね。

だから、北条早雲は凄いと思うんですよね。

ちなみに、月山富田城という名城も堅固な城ですね。

元就が、月山富田城を落とす時も、大内氏に従って敗北を喫した前回の月山富田城攻めの戦訓を活かし、無理な攻城はせず、策略を張り巡らしました。まず元就は兵士の降伏を許さず、投降した兵を皆殺しにして見せしめにしました。これは城内の食料を消耗させようという計略です。それと平行して尼子軍の内部崩壊を誘うべく離間策を巡らせた。これにより疑心暗鬼となった義久は、重臣である宇山久兼を自らの手で殺害。義久は信望を損ない、尼子軍の崩壊は加速してしまう。この段階に至って元就は、逆に粥を炊き出して城内の兵士の降伏を誘ったところ、投降者が続出し降伏しました。

つまり、こういった策略が勝敗をわけるという意味で北条早雲が、真っ先に策略を見せつけたわけですから、凄いですね。