小栗は、勝の話しをしていると必ずと言っていいくらいこの人の名がでてくる人でもあります。
遣米使節目付(監察)としてアメリカ海軍軍艦ポーハタン号で渡米しました。随行艦である咸臨丸には勝海舟が艦長として乗っていて、奉行従者には福澤諭吉がいました。
2ヶ月の船旅でサンフランシスコに到着して、歓迎されました。代表は新見正興であるにも関わらず、目付の忠順が代表と勘違いされ、行く先々で取材などを受け、新聞などにも忠順の名が上がってしまうほどでした。
勘違いの理由として、多くの同乗者は外国人と接したことがなく困惑していましたが、詰警備役として異人との交渉経験がある忠順は落ち着いていたために、代表に見えたと言われています。
またフィラデルフィアでは通貨の交換比率の見直しの交渉に挑みました。
これは日米修好通商条約で定められた通貨の交換比率が不適当で、経済の混乱が生じていたためでです。
忠順は小判と金貨の分析実験を主張の正しさを証明したにも関わらず、交換比率改定までにはいきませんでしたが、しかし、この交渉に関して、多くのアメリカ新聞は絶賛の記事を掲載するほどの手腕を彼はもっていました。
それと造船所の件も、それまでの手腕から、慶喜に絶大な信頼を得ていたため認められたわけなんです。
家茂に、神戸海軍操練所を認められた勝と比較されるんですよね。
そして、「横須賀製鉄所」(後の海軍工廠)の建設開始しました。
規模と建設費用を考えると当時のアジア最大の建設計画です。
28歳のフランソワ・レオンス・ヴェルニーを首長に任命しました。
幕府公認の事業では初の外国人責任者だったんです。
それにより職務分掌、雇用規則、残業手当、社内教育、洋式簿記など近代経営の基礎が日本に導入されました。
また製鉄所の建設をきっかけに横浜仏蘭西語伝習所という日本初のフランス語学校を設立し、ロッシュの助力もあり、フランス人講師を招いて本格的な授業を行なったのです。
卒業生には明治政府に貢献した人物が多いそうです。
そう考えると、どれだけ小栗が凄いのかよくわかります。
陸軍奉行になった小栗は海軍だけではなく、陸軍の力を増すためにフランス軍事顧問団の指導を受けさせ、洋式による陸軍を日本に広めた人物でもあります。
事業や軍隊強化などを成功させた小栗ですが、激務で死期を早めたという説もあったり、大隈重信が後年、「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と発言したほどの人物だったそうです。
もっとも大久保が、暗殺されなければこんなことは言われてなかったでしょうね。
名君斉彬は、誰よりも先を見ていました。
大久保は、その意志を継ぐために、十年は内乱の時期・次の十年は国を固める時期・そして残りの十年で理想の国を作りあげること、それが、斉彬・阿部・帯刀・龍馬の意志を継いだ大久保がなそうとしたことです。
それを成すために、最初の十年で内乱を終わらせて、しかしその際国を守るために悪役を演じるしかありませんでした。
それが、結局暗殺の原因につながりました。
つまり、大久保の死によって小栗の模倣と言われることになってしまったわけです。
何故小栗が、あまり注目されないのか、それは先を見た上で一滴足りとも血を流さないために国を一つにすると考えていた勝と倒幕派との主戦を考えた小栗というのが、大きかったと思うんですよね。
小栗は、徳川家の忠誠心のための判断です。
しかし、もしこの時大規模な戦をしていたら日本は諸外国に滅ぼされるか植民地にされるかしてたはずです。
だから、勝の評価が高いんですよね。
一つのことにこだわって国そのものが、滅びてしまっては意味がないですし、それに勝だって徳川家を残すための英断でもあるわけですからね。
それに徳川家には、天璋院がいれば大丈夫であるという判断もあったと思いますしね。
遣米使節目付(監察)としてアメリカ海軍軍艦ポーハタン号で渡米しました。随行艦である咸臨丸には勝海舟が艦長として乗っていて、奉行従者には福澤諭吉がいました。
2ヶ月の船旅でサンフランシスコに到着して、歓迎されました。代表は新見正興であるにも関わらず、目付の忠順が代表と勘違いされ、行く先々で取材などを受け、新聞などにも忠順の名が上がってしまうほどでした。
勘違いの理由として、多くの同乗者は外国人と接したことがなく困惑していましたが、詰警備役として異人との交渉経験がある忠順は落ち着いていたために、代表に見えたと言われています。
またフィラデルフィアでは通貨の交換比率の見直しの交渉に挑みました。
これは日米修好通商条約で定められた通貨の交換比率が不適当で、経済の混乱が生じていたためでです。
忠順は小判と金貨の分析実験を主張の正しさを証明したにも関わらず、交換比率改定までにはいきませんでしたが、しかし、この交渉に関して、多くのアメリカ新聞は絶賛の記事を掲載するほどの手腕を彼はもっていました。
それと造船所の件も、それまでの手腕から、慶喜に絶大な信頼を得ていたため認められたわけなんです。
家茂に、神戸海軍操練所を認められた勝と比較されるんですよね。
そして、「横須賀製鉄所」(後の海軍工廠)の建設開始しました。
規模と建設費用を考えると当時のアジア最大の建設計画です。
28歳のフランソワ・レオンス・ヴェルニーを首長に任命しました。
幕府公認の事業では初の外国人責任者だったんです。
それにより職務分掌、雇用規則、残業手当、社内教育、洋式簿記など近代経営の基礎が日本に導入されました。
また製鉄所の建設をきっかけに横浜仏蘭西語伝習所という日本初のフランス語学校を設立し、ロッシュの助力もあり、フランス人講師を招いて本格的な授業を行なったのです。
卒業生には明治政府に貢献した人物が多いそうです。
そう考えると、どれだけ小栗が凄いのかよくわかります。
陸軍奉行になった小栗は海軍だけではなく、陸軍の力を増すためにフランス軍事顧問団の指導を受けさせ、洋式による陸軍を日本に広めた人物でもあります。
事業や軍隊強化などを成功させた小栗ですが、激務で死期を早めたという説もあったり、大隈重信が後年、「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と発言したほどの人物だったそうです。
もっとも大久保が、暗殺されなければこんなことは言われてなかったでしょうね。
名君斉彬は、誰よりも先を見ていました。
大久保は、その意志を継ぐために、十年は内乱の時期・次の十年は国を固める時期・そして残りの十年で理想の国を作りあげること、それが、斉彬・阿部・帯刀・龍馬の意志を継いだ大久保がなそうとしたことです。
それを成すために、最初の十年で内乱を終わらせて、しかしその際国を守るために悪役を演じるしかありませんでした。
それが、結局暗殺の原因につながりました。
つまり、大久保の死によって小栗の模倣と言われることになってしまったわけです。
何故小栗が、あまり注目されないのか、それは先を見た上で一滴足りとも血を流さないために国を一つにすると考えていた勝と倒幕派との主戦を考えた小栗というのが、大きかったと思うんですよね。
小栗は、徳川家の忠誠心のための判断です。
しかし、もしこの時大規模な戦をしていたら日本は諸外国に滅ぼされるか植民地にされるかしてたはずです。
だから、勝の評価が高いんですよね。
一つのことにこだわって国そのものが、滅びてしまっては意味がないですし、それに勝だって徳川家を残すための英断でもあるわけですからね。
それに徳川家には、天璋院がいれば大丈夫であるという判断もあったと思いますしね。