Eernest Hemingway (アーネスト・ヘミングウェイ) はスパイだった? | ひでの天声時評(甘辛ブログ)

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 4月11日アメリカのオバマ大統領とキューバのカストロ議長が会談し、1961年に両国が国交を断絶してから初めての首脳会談を行い、アメリカが「テロ支援国家の指定」を解除し国交を回復すると発表した。

 
 
 会談の冒頭でオバマ大統領は「これは明らかに歴史的な会談だ。未来に向けて進むべきときがきた。両国はページをめくり、新たな関係を築くことが可能だ」と述べた。

 しかし歴史の中で、アメリカがキューバを社会主義国家として敵視してきたことは事実である。それを示すひとつとして、世界的文豪ヘミングウェイがキューバに関してスパイだったという衝撃的事実が4月18日付け朝日新聞で明らかになった。

 

 キューバを愛していたヘミングウェイが、本当にスパイだったのだろうか?。

 ヘミングウェイといえば『武器よさらば』、『日はまた昇る』、『誰がために鐘は鳴る』、『老人と海』などで知られたノーベル賞作家である。

 以下は朝日新聞記事から紹介する。

 -世界遺産に指定されている旧市街は、バロック様式の荘厳な建物もあれば、新古典主義やモダニズム建築も入り混じる。古いアパートに挟まれた狭い道で、裸足の子供たちがサッカーに興じる。その横を、観光客がそぞろ歩く不思議な空間である。
 異邦人が好んで訪ねるのは、文豪ヘミングウェーが通ったレストランやバーだ。キューバの観光資産の目玉の一つが、この文豪なのである。

 ヘミングウェーは1899年、米イリノイ州に生まれ、スペイン内戦を記者として取材した。1939年から20年あまりは、ババナで暮らした。
 郊外の高台に、ヤシやマンゴーの木に囲まれた邸宅「フィンカ・ビビア」がある。名作「老人の海」は、ここで執筆された。今は、ヘミングウェー博物館として公開されている。

 
(映画「老人と海」の一場面)

 文豪には、「別の顔」があった。第二次世界大戦中、米国のためのスパイ活動をしていたのである。
 駐キューバ米国大使と協力して「クルック・ファクトリー」(ならずもの工場)という名のスパイ団を組織し、ナチスドイツのスパイを探した。
 かと思えば、愛艇「ピラール号」に、バズーカ砲や手投げ弾を積み込んだ。漁とみせかけ、ナチスの潜水艦などが近づくと攻撃するためだった。

 
(趣味の魚釣りに興じたヘミングウェイ)

 さらに近年になって、ソ連の情報機関NKVD(KGBの前身)にも協力していたことが、元KGB幹部の暴露でわかった。文豪のコードネーム(暗号名)は、「アルゴ」だった。
 ヘミングウェーを研究する歴史学者、ニコラス・レイノルズ氏は、こう語る。
 「ソ連への共感はあったとしても、イデオロギーに賛成したわけではない。反ファシズムのための協力だったと思います」。 ただし、ソ連のスパイとしての成果は、ゼロだったという。
 ヘミングウェーは、60年にハバナを去り、米国に戻る。フィデル・カストロ氏らが親米政権を打倒し、キューバ革命を達成した翌年だった。
 なぜキューバを離れたのか。米中央情報局(CIA)の元幹部は「社会主義政権に資産を国有化されることを恐れたためだ。ヘミングウェーとフィデルは親しかったわけではない」と話す。

 
(フィデル・カストロとヘミングウェイ)

 ハバナのヘミングウェー博物館の館長、アダ・ローサさんは反論する。「彼はキューバ革命に好感を持っていた。出版前の草稿も残したままだった。再びここに戻ってくるつもりだったのは間違いない」。躁鬱にも苦しんだ文豪は翌年、自ら命を絶つ。

 ヘミングウェーの人生には、なお数多くの謎がある。ただ、愛する二つの国が敵同士となり、彼の人生をさらに難しくしたのは確かだろう。
 海を隔ててわずか150キロ。近くて遠かった両国に、ようやく橋がかかろうとしている。
 (アメリカ総局・山脇岳志の記事)ー

 ヘミングウェイがナチスやファシズムに抵抗しようとして活動したというのは頷ける話しである。
 ここからはキューバでスパイ活動をしたということは窺い知ることはできない。しかし、もし今もヘミングウェイが生きていたとして、今日のオバマ大統領のキューバ国交回復宣言を聞いたなら、どう思うであろうか。

 また、ハバナに行って、

 あの南国の楽園で生活してみたいと思うのだろうか・・・・・・・・・・・。