芥川賞作家のインタビュー | ひでの天声時評(甘辛ブログ)

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(芥川賞受賞直後の写真。23歳)

 第120回平成10年度下半期芥川賞受賞した平野啓一郎の『日蝕』を読んだ。
 じつはこの作品を読むのは初めてではない。平成10年度の作品であるからもう15年前の作品になる。芥川賞を受賞した直後に『文藝春秋』に載った『日蝕』を読んでいるのだが、この時は難しい漢語や難関な漢字のオンパレードのため、最後まで読み通すとこが出来なかった。しかし、今回、10年ぶりに挑戦してみたのである。

 そうすると平野啓一郎の天才ぶりをまざまざと見る思いがした。そしてあまりの感動ゆえににここに紹介してみようと思ったのである。

 この小説の擬古文といわれる難しい表現の部分はさておいて、平野啓一郎の天才たる所以を一部ここに紹介してみたい。
 
 そもそも小説とは、文章による言語芸術であることは言うまでもない。しかし、この平野啓一郎の『日蝕』は、文章で何も書いていないところが存在するのである。1行や2行ではない。なんと2ページに渡ってまで、まるで何も書いていないのである。2ページ分空白。こんな小説はなかった。

 それを、芥川賞が発表掲載された平成11年3月号の『文藝春秋』と、後に新潮文庫になった『日蝕』から写真で紹介する。


(平成11年3月号『文藝春秋・日蝕』)


(新潮文庫『日蝕』)

  
 写真で分かるように、小説の途中になにも書かない部分が存在するのである。
 重ねて言うがこれは決して小説の終わりを写したのではない。小説の途中である。空白ページの後、 小説は10ページも続く。(新潮文庫の場合)

 
 このような天才的表現をする平野啓一郎が、芥川賞受賞直後に語ったインタビューもまた大変興味深い。少し長いが紹介してみたい。以下平成11年3月号『文藝春秋』より。


 
 -芥川賞受賞おめでとうございます。「茶髪でピアス、二十三歳の京大生」で騒がれていますが、記者会見の時、あまり嬉しそうな顔をしていなかった。

 
 平野:ふだんから、ああなんですよね。学校の中を歩いていても、「疲れてんの?」とか「怒ってんの?」とか言われます(笑)。それからあの晩は、(賞の結果を待つ間に)すでにけっこうお酒を飲んでいたんです。

 
 -素直に喜ぶということは、まったくなかったんですね。

 
 平野:ウーン、そうですねエ・・・・・。「ものすごく感激した」といった感覚とは、違っていましたよねエ。意識して、なにか憮然とした表情をしたとか、そういうわけじゃないと思いますけど。記者会見の質問については、誠実にちゃんと答えたつもりですし。ただ、感情的な部分はどうしようもないわけですから。つくって、大喜びしてみてもヘンですし。
 正直言って、「日蝕」という作品が、ある程度、好意的に受け取られるとは、予想していなかったですね。評価はいろいろあるでしょうが、作品の出来については、個人的には悪くないと思っています。

 
 -「日蝕」は四作目だそうですが、それまでの作品は発表していないわけですね?

 
 平野:そうです。「日蝕」は二十一歳の冬から二十二歳の冬にかけて、一年間かけました。史料調べに半年、執筆に半年。そして「日蝕」ができた時、作品に対する自信みたいなのはありましたから、投稿したわけです。

 
 -平野さんは「三島由紀夫の再来」というキャッチフレーズで文壇デビューしたのですが、文学との出会いは、やはり三島由紀夫ですか。

 
 平野:最近は、ちょっと三島の小説からも遠ざかっていますが、三島は好きです。月並みですが、「金閣寺」が最高傑作だと思っています。


 
 ぼくの才能が三島と比べてどうかということは別にして、気質としては、すごいシンパシーを感じるし、ある意味では近いものを感じます。三島という人は、結局、一個の神秘主義者だと思っています。なおかつ行動の神秘主義者だったと。三島の死について、ぼく自身は、感覚としてはよくわかりますね。個人の死としては尊重しますし、否定はしませんが、ぼく自身は、ああいう形での問題の解決というのは、目指すべきじゃあないと思っています。ぼくとしては、いま違う方向で、問題の解決を見据えているところはありますね。

 
 -最初の読書体験は三島由紀夫でしたか?

 
 平野:ぼくは小学校の頃は、必ずしも読書少年ではなくて、みんなが読む名作は読んでいるという、その程度でした。「金閣寺」を読んだのは中学二年生でした。高校のときは、鑑賞という次元では、絵も、音楽も、文学もすごく好きだったんです。高校二年のときに、鑑賞者のラインをちょっと踏み出して、原稿用紙八十枚の小説を書きました。当時はトーマス・マン、「トニオ・クレーゲル」や「道化者」がすごく好きだった。

(ドイツの文学者、トーマス・マン)


 
  書き上げて、国語の先生と、友達と、姉の三人には読んでもらいました。自分で読み直すと、出来が悪かったというのが一番の原因で、発表もしなかったし、小説を書くのはやめました。

 
 -大学は法学部に進んでいますが、やはり三島由紀夫の影響ですか?(中尾注:三島は東大法学部卒)

 
 平野:三島はなんの関係もないんです。ぼくの中で、美とか芸術に耽溺している自分が、生きていないっていう感覚がすごく強かったんです。社会に出て、実際的な問題にかかわって生きている人間こそが、ほんとうに生きているんだっていう感覚がすごくあった。できるだザッハリッヒ(即物的)な世界に自分の身を置いて、無理やり自己規定すれば、自分が変わるかもしれないと。ですから、経済学部でも法学部でもなんでもよかったんです。ただ、勉強していたら、成績が上がったから、法学部にしました。

 
 -うらやましいですね(笑)。

 
 平野:大学に入って、本なんか読むまいと、実際思ってました。ところが京大というところは、学校からの強制力が皆無に近くて、野放しなんです(笑)。そうすると、次第に、自分の気質というものにまた傾斜していきました。それでも、ぼくが小説を書いているなんて、友達は誰も全然知らなかった。

 
 -「日蝕」で、一番問題になったのは、文体のことですよね。「読みにくい漢字をわざわざ使っている」とか、「なぜ擬古的な文章で書かなければいけないのか」という批判がありますが、多くの読者も、小説の入口のところで、そう思うのではないでしょうか。

 
 平野:ええ、そうでしょう。ぼくの基本的姿勢は、「書こうとするモティーフのために、最もふさわしい文体を」というものです。「日蝕」の場合は、あの文体がモティーフに一番ふさわしいと思ったからこそやったわけです。「簡単な表現ができるのに、わざと難しい言葉を使った」という意識はまったくないんです。ぼくの中にあるヴィジョンなり、情景なりを描こうとするときに、必然的に必要な言葉しか使っていないという気持ちは、すごく強い。ペダンティックに、「ぼくは、これだけ漢字を知っているんだ」と、自分の小説の中で披露するバカなんているわけないですから。
 
 
 単なる意味ということで言えば、簡単な言葉と難しい言葉は同じかもしれないけれど、視覚的効果とか、音の響きとか、漢字の構成とかによって、印象というのはまったく別なわけです。その時に、ぼくが描こうとしているヴィジョンに、どれが最もふさわしいかを考えて、それから全部を総体的に判断した上で、ある言葉を使っているわけです。

 
 -しかし、言葉の蓄積、貯蔵量は大変なものです。

 
 平野:読書体験の中で、気がついたら蓄積ができていたということですね。蓄積のされ方は、みなさんと一緒だと思いますよ。その保存期間が長かったり、定着率が高かったりはあるかもしれませんが。

 
 いい作家は誰でも、モティーフによって文体を使い分けていると思います。三島ならば「憂国」と「春の雪」の文体とはまったく違うわけです。


(出版するにあたって「憂国」の題字をみずから書いた)

(竹内結子・妻夫木聡主演で映画化された「春の雪」)

 
 ただ「日蝕」の場合は、それが尖鋭化されているから、議論を読んだのかもしれませんけど。「日蝕」は中世の坊さんの一人称で書くわけですから、それなりのストイシズムは必要になってくるわけで、こういう文体は、やっぱり出てくるわけです。たとえば中世末期にには、スコラ学的なラテン語と、キケロに範をとった人文主義的な言葉があって、その二つの言葉のせめぎあいみたいな状況があった。そのせめぎあいを、明治期の文語文から口語文への転換期のある種の緊張に仮託して書きたかったという事情もあるんです。
 時代設定に関しては、自分としては、かなり厳密にやっています。「日蝕」の場合には、いろいろな思想的な問題ということは、パウロ、アウグスティヌス的な伝統のキリスト教の中において、肉とか霊とか、神とこの世界とかが無限に接近した。二十世紀以前では、ただ一度の例外の時期なんです。それがプラトン主義の受容と宗教改革によって、再び神と世界はパーンと切り離されてしまって、肉に対する霊の優位が確立してしまう。その切り離される寸前の緊張した時代が、『日蝕』の時代背景となっています。「日蝕」で回想されるのは1482年ですが、その年が前後に三年ずれれば、小説として成り立たないと思っているんです。

 
 -ハア。

 
 平野:この時代は前から関心があったのですが、ディテールに関しては、注意して仕上げたつもりです。部屋の描写などは一貫していないとおかしいですから、まずデッサンを描きました。一角獣の絵とかも全部デザインしましたね。


 
 -絵は好きなんですか?

 
 平野:すごく好きですね。両性具有者の焚刑の場面はずうっと炎がうねっているわけですから、絵にするのは難しくて、デッサンはやってないんですけれども。

 
 -頭の中にヴィジュアルがあるわけですか。

 
 平野:そうです。言葉は結局、通過点でしかないんですね。最終的に超えられなければならないもので、そのヴィジョンに到達してもらわなければ、何の意味もない。できるだけ正確に、そこに到達してもらうために、言葉の構築をやるわけです。

 
 -平野さんのその言葉がどこまで到達されるかという問題はあると思いますよ。

 
 平野:ぼくは、二十世紀美術をたくさん見てきて、自分の表現がいったい鑑賞者に通じるのかという反省は、常にもっています。二十世紀美術には、何を描いているのかわからないような絵が山ほど溢れています。それは「おれの表現は、いったい鑑賞者に伝わるのか」ということに関する真摯な反省が欠けてしまったためではないか。
 ただ、読者の想定に関しては、ぼくは、まだ結論が出ていないところがある。読者が、ある言葉がわかる、わからないという判断基準は何かとなった時に、それを具体的にどのレベルに設定するかは不可能な問題だと思うんですね。ぼくは読者は常に意識して書いていますが、それを現代の、今の、日本のある年齢層というふうに、具体的な条件には限定したくないという気持ちはあるんですね。ですから、表現においては、「この言葉は、読者がわからないだろうから使わない」という姿勢は、基本的にないです。ぼくが鴎外を読むときに、もちろん知らない言葉はありますよね。あますけれども、じゃ、その言葉のために、鴎外の受容の本質的な妨げになったか。なってないと思うんですですよ。

 
 -現代ということに関していえば、平野さんの「日蝕」には、今の時代に対する違和が強烈にあるのではないですか?

 
 平野:ぼくは、確かに、現代という時代に、ものすごく違和感を感じています。ただ、それが、「じゃ、お前は、十九世紀に、或いは中世に生きていたら、その違和感を感じなかったのか」と反問されれば、ちょっとわからない。十九世紀の小説を読んでいても、中世の文献を読んでいても、もし当時の社会に自分が生きていれば、今感じているのと案外近い違和感を感じただろうなと思います。ぼくは不登校なんていうことは一度もなかったけれど、「学校と合わない」「学校が嫌いだ」という感覚をずっともっていました。しかしそれは、実は、もっと根深い、社会と自分との本質的な矛盾に根をもっているんだということに気づいて、ちょっと愕然としたんです。ぼくがこういう気質である以上は、現代に限らずいつの時代でも、社会との間に矛盾を感じるのではないか。で、自分にとって、社会との間の本質的な矛盾と、現代社会というものとの矛盾が、奇妙に溶け合って、見えにくくなっているところがあるんですね。

 
 -「日蝕」は十五世紀の修道僧が錬金術師を訪ねるという物語ですが、それと同時に、物語全体が錬金術になっているように読めました。

 
 平野:それもあります。あの小説に関しては、ぼくは四重の構造を重ねているんです。

 
 -四重の構造?

 
 平野:そうです。ひとつは、表面に流れているプロットです。二つ目は、中世のスコラ哲学からルネッサンスへの転換期の何十年かにわたる思想的な流れを、主人公の個人的な体験の中に象徴的に経験させていることがある。三つ目は、錬金術そのものを、テキスト全体を通して展開している。もうひとつは、ベースとしてギリシャ神話があるんです。ユスタスという村の司祭は、キリスト教的な社会の中で徹底的におとしめられ、衰弱したディオニュソス(中尾注:ギリシャ神話の酒の神)なんです。その他の人物たちも、ギリシャ神話の衰弱した神々なのです。

 
 -それは是非もう一度読んでみないと。ところで平野さんは今、四年生ですが、これからの予定は?。

 
 平野:希望としては、大学なんか別にいてもしょうがないですから、一日でも早く卒業したいですね。今やめても、京大中退なんて、中途半端でカッコ悪いですから(笑)。


 
 
 「日蝕」を読んで、なにかギリシャ神話的なものがあるとは思っていて、複合的になっているとは分かっていたが四重構造になっているとは思わなかった。しかし、平野啓一郎の四重構造の説明は実に納得できた。腑に落ちたのである。

 
 芥川賞受賞当時、平野啓一郎は23歳であったが、これは石原慎太郎「太陽に季節」、大江健三郎「飼育」と同じ大学生による最年少の芥川賞受賞であった。

 
 しかし、天才とはこういう人のことをいうのだなあと、改めて知った次第である・・・・・・・・・・。

 

 (平野啓一郎のサイン)

(谷崎潤一郎生誕100年祭にて、平野啓一郎と僕)