慈しみのひかり。

慈しみのひかり。

視えない世界、精神世界について書いています。
特に、魂、神佛、霊界について。



 【無無明(むむみょう)
 亦無無明尽(やくむむみょうじん)
 乃至無老死亦無老死尽(ないしむろうしやくむろうしじん)】

 釈迦が解いた教えの中に、
 十二因縁というのがあります。
「無明(むみょう)」。
「行(ぎょう)」。
「識(しき)」は 意識の識。
 身体を「名色(みょうしき)」。
「六処(ろくしょ)」は六根です。
「触(そく) 」「受(じゅ)」「愛(あい)」
「取(しゅ)」 「有(ゆう)」 「生(しょう)」
「老死(ろうし)」と、
 十二あるから十二因縁といいます。
 
 こんなことを覚えても頭がこんがるだけだから、
 覚えなくても良いのですが、
 この言葉のために説明します。

 まず、人間の迷いはどこから来るのだろうか。
 迷いというのは『無明』といいます。
 佛の中にこうして魂は祈られている。
 せっかくの魂の光、
 魂の明るさや佛に祈られているという
 道理の明るさを感じていなくて暗いから
 これを『無明』というのです。
 現世的な明るさではなく、
 道理に暗いということです。

 物事の道理に暗い「無明」ということがあり、
 その「行」が業(ごう)となって、
 これを包み込む意識「識」があり、
 身体を持ちたいとなって身体を「名色」。 
 身体を持つと
 「六処」(目, 耳、鼻、口、身体,  心)があり、
 そしてものに触れると「触」。
 そして感じるものを受け入れます。
 それを「受」。

 そして、それをもっと持ちたいと
 愛着「愛」が起こる。
 世の中では愛は良いことだと
 いわれていますが、
 佛教では愛の中に執着という意味も
 含めてあります。
 愛をもっと獲得したいということから
 執着が起こる。
 それでいろいろ取り込む。
 これを「取」といいます。 
 取ることによってまた形の成り立ちが有る、
 これが「有」です。

 形にとらわれることを
 佛教的には「有」といいます。
 有ると思うから、
 また生まれてきたいという思いが
 「生」ですね。
 現世に執着が残っているから、
 また生まれてくる原因になる。
 そして、老いるとか死ぬとかという
 苦しみがついてまわる「老死」ですね。
 生まれてくれば必ずそれはついてくる。
 これが「十二因縁」です。 
 「無明」「行」「識」「名色」「六処」
 「触」「受」「愛」「取」「有」「生」
 「老死」です。
 ややこしいですね。

 ここでも『乃至』を使って
 間を省略してあります。
 『無無明 亦無無明尽』
 つまり 『無明』も無いし、
 また『無明』の尽きることも無い。
 もともと『無明』なんてないんだと
 いっているのです。

 人間の迷いは仮の姿で幻みたいなものだから、
 本質として
 皆さんがあるあると思っているものは
 本当の姿では無いのです。  
 もともと『無明』という迷いも
 佛は創っていない。
 本質的にはただあなた方に
 いろいろなことを経験してもらうために、
 幻の仮の世界にも佛の姿を
 現していけるように、
 そしてその感動を与えるために 
 この世界を見せている。
 だから、本質として「無明」というものは無い。
 もともと無いものなんだから
 当然尽きることも無いのです。
 あるから尽きるのであって、
 もともと無いものは尽きることも無い。
 そして『乃至』つまり十二因縁の
 最後の「老死」に至るまで、
 全て仮の姿なのです。 

 これは実体ではない。
 だから、とらわれる必要はないと
 いっているのです。
 これを現している、
 この目に見えない佛の『空』という力こそ
 実体なのです。
 これがわかったら楽しみなのです。
 自由自在に表現できる。
 芸術だから素晴らしいのです。