僕の人生は所詮、ナンセンスなものなのだろうか。また僕はこのブログで多くのものを書いてきた。そうする中で成長できた点と特徴漬けられた点がある。僕はどうしても統合失調症以後に焦点を当てたスタイルが多く、そのスタイルが凝固している。僕はもう少し柔軟でなければいけない。ヘルパーには柔軟だし、十分明るいし前向きだと言われた。高身長だとも言われた。僕は人との関わりの中で戦々恐々とする時もあるが、希望を見出す時もある。ネット上での関わりであってもそうだ。僕と言う存在を知っている人全員が僕との絆がある。この人生がナンセンスか?そんな訳がない。僕はウィットやユーモアを活動に組み入れる。僕にしか出来ない事はないかもしれない。僕の作り出す不思議とも言える作品は統合失調症ではたびたび見られるものなのかも知れない。実際統合失調症の芸術家は多い。芸術療法なるものがある程である。また僕はどこかの大学に招聘され、研究する事を夢見ていた事もある。しかし統合失調症でそれが台無しになった。でもその代わりに重要なものを得て、立派な成長が出来たような気がする。僕の長足の進歩である。また文章も読者に寄り添った平易なものに変わった。これも僕が他者を迎合しようとする意識の表れだ。大人になると闊達であるように一見思えるが実は多くの閉塞感や精神の破綻に苦しむ事になる。社会構造そのものが瓦解する事も今後日本では起こるかも知れない。移民難民も少子高齢化と多様性の波もあって受け入れざるを得ないであろう。否応なく、断腸の思いで生きないといけない事もある。理想郷なんて存在しない。ただ現実は多面的に捉えるべきだ。モンティパイソンも人生の明るい面を見ていこうと言っていた。それは確かに正鵠を射る発信である。僕も意味のある発信が出来ているだろうか。

 様々なものが勃興し、また様々なものが衰微し、零落していく。その中で生き残るには常に最先端を意識しないといけない。特に感受性豊かな発信者はいつまでも固陋になっていたら傑作などは生まれない。先駆的な産物が大衆に理解されるのにタイムラグがあるように時代錯誤的な産物も同様にタイムラグがある。また僕は今日はヘルパーに調理を任せた。少し悪い気もしたが外出は甚だストレスの、心理的負荷のかかる事である。僕の生き方と健常者の生き方は平行線を辿るようであり、きっといつか大いに互いに昵懇になる事だろう。僕は前向きにそう捉えている。人生では働かない時期もあって良いじゃないか。僕は無職を謳歌している。精神障害の為にいかんともしがたく働けない人もこの市井ではしばしば見受けられるものだ。恐悦至極で秀逸なのはそんな弱者に都合の良いサービスがまだこの国に佇立し、幅を利かせているという事だ。