僕は言行一致の男になりたい。これは理想が高いのだろうか。僕自身、半生は結句一貫性がなかった。自分自身を矮小化する気はないが長く続けられるものはなく、生は難渋した。急転直下、中三の時から原因が統合失調症の認知機能障害が発生し、自分の人生において自暴自棄になっていった。読書キャラはかっこいいというイメージがあったのと、人間関係の熾烈さにほとほと嫌気がさしていたので、僕は根暗になり、人から嫌忌されるようになった。文学の世界も凄惨な現実に対し薬や栄養剤のような効果を発揮しなかった。 そう言えば関係ないが僕の中学時代の友達が今は東京で働いているらしい。恋人もいるらしい。僕も大学卒業を契機として東京に出ることを視野にいれていた。これは辛酸の土壌を吸収した土地からいち早く離れたかったからだ。しかしそのような理由で各地を転々としていたらそれは喜劇であり寓意である。実存主義的には人類悉皆が旅人で、人生に本質的な意味などはない。その事をカミュやサルトルは文学活動で端的に、しかし清冽に語った、しかも饒舌に。カフカはその先駆者で不条理文学だとかシュルレアリスムとかとも言われ、世界的な名声を得て20世紀の文豪、巨匠になった。人生、何が起こるかは分からないものだ。知悉の博学者が幅を利かせるこの科学の黎明、勃興時代においても、まだまだ解明されていない事象は多い。 僕は今後外に出て恋愛をする。恋愛以外の事については概して完遂する事が出来た。僕は長身女性の為に献身したい。僕は愛とユーモアを与えて無限の優しさで彼女を癒したい。それは膏薬にもなり、特に停滞期においては霹靂にもなるだろう。僕はこうして文字で自分の胸中を話すことはかなり慣れてきた。それでも何億といる他の人類と比較すれば拙劣、凋落、ナンセンスも良いところだ。 恋愛については僕は必ずしも無縁だった訳ではない。異性に言い寄られたり、モテたりした事もあった。しかし統合失調症がその平穏を困憊と固陋と狼狽に統一した代物に変えたのだ。何たる悲劇だろう。僕は他の思春期の、過渡期の青年と同じように自己憐憫や失意、無力感を感じた。表面では気丈に振る舞い、傲岸不遜なキャラを演じていたが結局身から出た錆、自業自得、僕は長い間不遇の人生を歩むようになった。事故で非業の死を遂げた友達を、そして人生を包摂する程の肥大な悲運を僕は求めていた時期もあった。極端だったのだ、若い頃は。今は変わって病気も良くなり寂しさや虚無感に苦しみ、泣きながらも現状のありのままに相対している。 そして冒頭に戻るが僕は不安定で変則的な人生において理に即さない、言行に齟齬のある生き方はしたくないなあと、単にそう思ったのである。呻吟しながらもたくましく生きたい。