僕は中学生になった時を端緒として沢山本を読んできた。中学時代の作文にこれからどうしたいか、を書く際にこれから一際本を読んでいきたいと思います、と書いたくらいだ。僕の感想文は度々校内のプリントに掲載されていた程だが当時はラノベの影響をもろに受けていて、常に質が高かった訳ではない。僕の作文はめちゃくちゃだと担任に開口一番言われた事がある。僕は今でも本を読んでいる。本の内容が今の僕の主軸を作っている、幅を利かせていると言っても過言ではない。まあ今後は堅苦しい本ではなく、もっと分かりやすい本を読んでいきたい。僕の文章はムラはあるだろうが基本的に読みづらい。人を選ぶカルト的コンテンツである。noteのブログでもそうだ。僕は本によって知恵とは何か、知識とは何かを深く考察していた。僕は一昨日中之島美術館という大阪の某所に鎮座する美術館に行ってきた。シュルレアリスム展だ。シュルレアリスムの白眉達が、住宅が軒を連ねるかのように数多く飾ってあった。僕は撮影出来る範囲の作品は撮影したつもりだ。そのついでに二冊のシュルレアリスムに所縁のある本を購入した。その本は一日で目を通した。非常に濃密な内容となっている。僕は適切に言語を扱うべく、読んできた本の適材適所を表現していきたい。詩的言辞を伴い、半ば感性的陶酔に終始する文章の何に魅力があるだろう、何に醍醐味があるだろう。芸術という視点ではそれは非常に重要な牙城とも言える観点かも知れない。しかし僕は芸術も学問も引退したのだ。これからは派手さはないが幸福に生きたい。
僕は本当に統合失調症になってから、15歳以後は人との関係を避けるようになり書籍を貪り読んだ。そんな僕は人を寄せ付けないオーラが出ていたという。僕は自分から読書に逃げて、日常は勉学に身が入りなくなり、留年の一歩手前に陥ったりした。僕は高専という地元ではエリート校、通っているだけで誇張もあるだろうが大天才と言われるような学校に通っていたのだが僕は入学式の前日に、どうにもならない失態、粗相に非常に忸怩たる思いを感じた。こんな事はあるだろうか?僕は完全に自分の人生を統御する事も出来なかった。既に中三の時点で統合失調症だった。まあ過去についてはこれくらいに。
読書は良い。読んでいるだけで、思考が深まる。当然何も考えずに読む訳がない。ちょっと戻ったり、全体を吟味するかのように読んだり、頭の中でロジックを組み立てて理路整然と進捗させていく事もある。また気分によって楽しみ方も様々だ。心の避難場所として、逃げ込む内的世界。それを紐解くきっかけが僕の場合読書だった。僕は紙で本を読みたい。電子書籍は読んだ気にならない。日本語がメインの文章を読む事。あの御大、筒井康隆ですら、自分は英語は分からないと言っているくらいだから、その点は別に雪辱を感じる必要はないだろう。変なジンクスを組み立てて、それを墨守する事もない。僕は生きやすいように生きれば良い。無論完全ではない。僕の作ったものを見れば瞭然であるように僕はいわゆる完全な作品を作ってきたつもりはない。それどころか気が滅入っている時はこれまでの活動を回顧し、粗製濫造してきたと思う程だ。完全に悦に入ってこの記事も作っている訳ではない。しかし自分なりの内省は装填している。これも完全にではないが様々な知識の体系と同居した重要な要素である。
僕の言語表現のみならず知的活動の一切合財は既に本による既視感により構成されている部分が多い。僕はやはり死人でさえも重要な腹心になるような経験をしている。それが読書だ。読書は良い、本当に良い。しかしただぼんやりと見ているだけでは駄目だ。自分の中で何度も考えて、視座も変え、何度でも楽しめる、それが名著というものである。僕は取るに足らない本も読んだ方が良いとは思うが、自分の思考の中枢に置くのは傑作による精髄なのだと思う。僕は何度もそれを意識してきた。本がないと僕の人生は非常に粗末なものになった事だろう。しかし僕は熱心な読書家という訳ではない。実際に今は本を取り出して読むのは折に触れてだ。しかし読書の経験は僕の記憶に明確に刻み込まれており、頭の中で縦横無尽に飛び交っている。その内情はまるで非現実的、シュルレアリスム的である。
そう、シュルレアリスム!やはりそこに戻る。芸術の運動というのは前提を見直す、哲学的なパラダイムシフトを幾度も繰り返してきた。種々雑多な天才が歴史を覆してきた。僕は彼らを尊敬する。そして自分のしてきた活動にもそれに匹敵する何かを感じている。まあこれも像が歪んだりする事もあるが。まあどれもそうだ。どんな美男美女でも常時、鏡で最高に見える訳ではない。芸能人であっても照明やヘアスタイル、メイクなどの舞台装置のおかげで上澄みだけすくったような感じになっている。
色々脱線したがやはり読書は僕にとって重要な一つである。