たかが福島。されど我が故郷福島。


仕事上、20代の若いお客さんと話すことが多い。

妻帯者も多い。


話題が原発事故関連が多く、命に直結し、子々孫々にかかわる命題で、ともすると感情論が支配しやすい。
年輩者の私は、偏りがあってはならないと思い及ぶことが多い。


読書がすっかり、だいの苦手の物理範囲に手を出しはじめ食傷気味。


ちんぷんかんぷんを克服しようと必死な中年オヤジであるわけでして。


受験生でもあるまいし。


しかし、頭にはいらない。まったくはいらない。


物理を真面目にやっとけばよかったな、と。人類初、震災による「原子力発電所事故」が我が身にふりかかり、二ヶ月が経ち自堕落ぶりに気がつく。


物理学の大理論である、相対性理論(アインシュタイン26歳、1905年)「相対性理論は時間と空間の性質を物理的に解明した理論」を雑考を備えるために色々読むもあえなく撃沈。


頭が割れるような痛みに襲われる(笑)


おぼえていた公式が、E=mc2乗と情けない始末。


「質量に光速度の2乗を掛けたものがエネルギーに等しい」というもの。


小学校の算数の1+1=2と同レベルなので、ほとんどの人が知っているはずだが、高校を卒業して三年~五年の数人に尋ねたら、ほとんどの人が知らない(カリキュラムにない!?)


鉄拳教育世代で良かったな~と、つくづく感じる。ぶん殴られたぶん体に染み付いているのか。。


古典と物理と倫理の先生は怖かったな。と、懐かしや。


しかし、今思うと、この公式E=mc2乗が、まさに原子力に直結するわけで・・・


相対性理論は光速度不変の原理を土台に、時間、空間の未知の性質をあらわにした。


アインシュタインがたどりいついた「光速度はこの世で実現できる最高の速度」という不変以外の重大な意味である。


物体を光速度以上に加速させようとエネルギーを放出すれば更に物体質量が増す。

つまり、光速度に限りなく近づくと物体の質量は無限大に近づくので、どうやっても光速度以上に加速することはできない、という理論。


すなわち、光速度においつくための物体の速度エネルギーは質量の増加になり、エネルギーが質量にかわったことになるわけです。

アインシュタイン以前の科学では(1905年以前)、質量とエネルギーは別のもなと考えられていたわけで、エネルギーと質量が同じものと気づいたアインシュタインが、いかに優れ、人物であったかと唸る次第だ(アインシュタイン否定論と、一般相対性理論と特殊相対性理論の相違も省く)


つまり、質量とエネルギーが同じものであるということの科学的な証明として代表的事例であるものが原子力発電で使われる「核分裂反応」で・・・


ウランの原子核が分裂して複数の原子核になる時に、約0.1%の質量が減る。


その質量は膨大な量の原子力エネルギーとして放出され、これを利用して発電を行うのが原子力発電であるわけです。


例えば、一円玉五枚分の質量をすべてエネルギーにかえることができたら、東京ドーム一杯分の20℃の水を100℃にできる。


想像を絶する、すざまじいエネルギー量だ。


真面目に物理を学んでいる方には笑われ、小学生レベルとお叱りを受けそうな説明と前提するものですが。。


しかし、意外と小学生レベルの人が(自分も含む)多い。

被曝地域住民として、恥ずべき事柄であり、知る行為を、或いは知る権利は、堕落に排除してはならない義務(責任)を感じる。


胎動的に情報と知識を摂取する行為は、子を持つ親としては避けて通れない日常と化しているのが、我が福島県である。


世界的に象徴されるようになった「fukushima」の時世に、何をみて、何をよむかは(時勢)、我々人間の欺瞞によって取り返しのつかない犠牲をあたえてしまった自然に対しての報恩ともせねばならないはずだ。

日々、生活におわれ、放射線という未知なる恐怖におわれ、経済や地域性が揺らぐ中でも「生きて」いかねばならない心労や疲弊は、ある種、我々福島県人が与えられた試練で、それを克服できれば、他方からも羨望へとかわる未来も与えられるかもしれない。


暗転してしまった環境を嘆くよりも、好転「できる可能性」によろこびを見いだしたい。と、思うが、時間はそうは思ったように進まないとアインシュタインもいっている(笑)


しかしながら、希望的な時間という兆しは持ち続けたい。