桜満開の暖かい日になりました。34年前の私と夫はおよそ1年半ぶりに日本に帰りました。

 

1987年(昭和62年)4月24日(金) 千葉県松戸市

 

 私たちは昨夜12時ごろ引き上げてきたけど、同室のイレーネは午前2時ごろ戻ってきた。あれから2時間も騒いでいたのか。今朝は昨夜の疲れも見せず、ケロッとしていた。元気だなぁ。横浜着は今日の午後4時。日本時間はハバロフスクより2時間も遅いとわかった。時計の針を戻す。
 しかし昼頃には房総半島の沖合を通った。どうして到着時間が遅いのだろう。午前中にパスポートを受け取り、入国カードの記入を済ませ、昼食後は荷物をまとめて廊下へ出した。入国イミグレは船上であるらしい。

 

 デッキから東京湾に入る風景をぼんやり見ていると「いよいよ日本上陸」という感慨がわいてくる。飛行機で一気に飛ぶのではなく、船で徐々に近づいているからだろう。
 しだいに興奮が高まって、入国までまだ何時間もあるのにソワソワうろうろ、落ち着かない。ケイトや姉に似たスェーデンの女性から「日本に近づいてうれしいでしょう」と言われるくらい傍からもソワソワしているのが分かったようだ。
 

 彼女たちにとっては初めて見る東の果ての国だろう。緑多く春の霞がかかっている。ソビエトの風景と比べると心が和むと思う。残念ながら富士山は見えず。デッキで日本人男性4人組のうちの一人と話した。

 グリーンのパスポートを持ってあったので、政府関係者かと思えば石川県の漁師さんだった。漁業権の問題でナホトカに10日間滞在されたらしい。日本の漁船活躍しているなぁ。たくさんの小舟がイカ釣りしている風景や親潮・黒潮の境目のことなど教えてもらった。パスポートをもらった時に名刺交換した佐山さんは昨日までほとんど顔を出さなかったのに、今日になって元気になってある。彼女もイギリスに留学していたとかで日本は1年ぶりだそうだ。しきりに私たちの旅行をうらやましいと言っていた。
 

 いよいよ船が横浜港近くなり、お役人さんの船が着いて入国イミグレが始まった。酒は買わず(ジョニ赤しかなかった)、たばこ5個だけの私たちは申告するものもなく簡単に済んだ。日本語でできることがなんともうれしい。でもお役人はやっぱり官僚的な態度だった。
 

 王桟橋に船をつけるのにしばらく時間がかかった。お迎えの人たちが見ている前、1時間ぐらいお預け。佐山さんのご両親、ケイトのボーイフレンド、スイス人のおばあさんの息子が来てあると分かる。佐山さんご両親の顔を見て涙涙…。私たちにもお迎えがあったら泣くだろうなぁ。私は桟橋で自転車に乗っていた普通のおじさんが話す日本語を耳にして、やっと日本に帰ったんだという実感がわき、涙が出てきた。あれほどなつかしく早く帰りたいと思った日本が今目の前にある。まだどこかそれが信じられない。
 

 しばらく同船の人たちとお別れのあいさつをして、内田さんとタクシーで横浜駅まで行った。その前タクシーの客引きがいて、「桜木町まで」というと露骨に嫌な顔をし乗車拒否された。やっぱりアジアだな。列車に乗る前に内田さんと別れ、自宅に電話した。100円玉2枚入れ、お義母さんの声を聞いた時、絶句して何も言えなかった。
 

 駅の窓口で博多までの切符を買おうとしたら、混み合っていてコンピューターの方へ行くがどう操作したらいいか分からない。小学生のガキがさっさと使いこなしているというのに…。あぁ、時代に乗り遅れている。駅は人でいっぱいで、みんな忙しそうに歩いている。そして来ている服の何てきれいなことか。
 また顔がのっぺらぼうでみんな同じように見える。このところずっと毛唐の顔ばかり見てきたからだろう。自分の顔ものっぺらとしているのに。
 

 次にしたことはいなり寿司を買ったこと。日本に帰ってまず何が食べたかったかというと、こういうごくありふれた日本食だった。夫は週刊誌や新聞を買いあさっていた。東京までの国鉄、いやJRの中で缶ビールで夫と二人乾杯した。長距離列車のような気がしていたが、東京までは普通の通勤列車だから、汚い格好のバックパッカー二人が東横線でいなり寿司で乾杯しているのはちょっと変な光景だったろう。
 

 はやく週刊誌や新聞が読みたかったけれど、それより日本の風景を見たかった。新鮮な目で日本を捉えたかった。きっとまだ旅行者としての見方ができるだろうから。
 たとえば、ホームのアナウンスがていねいだがうるさいとか、新緑がきれいだけれど、家が建て込んでごちゃごちゃしているとか…。他にも人混みが多く目が回る、電車の中でも本を読むほど勤勉だ、物が豊かであふれている…。
 

 今日は夫のおばあちゃんの弟の家にお世話になることにした。千葉県の松戸市だから、上野で常磐線に乗り換えて行った。。松戸駅でさえパリやロンドンの駅並みに大きい。さらに近郊電車で五香という駅まで行った。横浜から増える一方の家やビルが今度はだんだん少なくなり空き地が見えてきた。静かな住宅地でほっとする。今の私たちには東京の中心は刺激が強すぎる。やっぱり田舎がいいと思った。
 

 松戸の江南のおじさんのところは粕屋の実家と似ている。初めてだったが、おじさんもおばさんも多久で会って知っている。今年退職されたおばさんは選挙の応援演説に行かれるとかで忙しそう。台所の方は私が引き受けた。食事の準備をしたり、日本的な親戚づきあいをしたり、すぐに日本の感覚、ライフスタイルに引き込まれていく。あぁ、もう日本の生活が始まった…。〈松戸江南さん宅〉

 この写真は佐賀県の多久市専称寺の自宅前です。4月27日に福岡、そして28日に多久へ帰りました。

 この後の日記はありません。でもすぐに子どもができ、昭和の終わり63年2月に生まれました。それからずっと今日までこのお寺で暮らしています。

 ずいぶん寺や家族も変わりました…4人の子供に恵まれ、一時は9人家族でしたが今は夫と重度知的障害のある次男の3人のみ。これに出てきた人で亡くなった方もけっこういらっしゃいます。

 ボロボロになった日記を読み返しパソコンに保存することで、その方たちを忘れないうえいい思い出になります。駄文ですが、こうやってブログにしたことでいろんな方に読んでいただくことができました。

 コロナ禍で家にこもることが多い日、この日記を書きながら34年前に戻り(若がえり!)、もう一度みなさんと一緒に旅行したようでした。

 

 これまでずっと、いや時々でもこのブログを読んでいただき本当にありがとうございました。

そしてSonokoさん、スタジオジロさんたくさんの方に「いいね!」していただき本当に嬉しかったです。ありがとうございました!!