2020.11.19

 

 

こんばんは(^^)/

 

 

今夜はYouTubeの東住吉キリスト集会のチャンネルから、『ざっくり黙示録17』をご紹介します。

 

 

今回は、黙示録9章の後半から、第6のラッパの裁きのメッセージです。

三つのポイントがあります。

 

 

①悪に対する正義の審判

②裁きに使われるもの

③悔い改めの招き

 

 

第6のラッパでは、四人の堕天使が2億の悪霊たちの軍勢を率いて、人類の三分の一を殺害するという、恐るべきことが起こります。

 

 

この三分の一の人たちの多くは、黙示録6章で殉教者となったキリスト者を殺した人々ではないかとのこと。すなわち、ここで「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの地の復讐をなさらないのですか。」との叫びに対する答えが、この第六のラッパでなされる裁きでもあるということでした。

 

 

七年患難の前半に大リバイバルが起きますが、その後、大変な迫害が起こり、患難期のキリスト者が殺害されてゆきます。そして、黙示録の9章後半になると、第6のラッパの裁きが起こり、四人の堕天使が率いる2億の悪霊によって、この迫害をした人々が殺害される‥。

 

 

しかし、生き残った人たちは、それまでの生き方を改めようとせず、悪にとどまり続けるのですね。悪霊たちに殺されているのですが、神に立ち返ろうとせずに、悪霊を拝み続ける。そうしたことが起きてきます。

 

 

悪を行うと、良心の呵責というものが心の中には起きてくるものですが、この時代の人たちには、そうしたものが希薄、というか、欠如しているようにも見えます。正しい基準で物事を判断できなくなるのでしょうか。

 

 

「良心の呵責」といえば、今は、「恵みの時代」の最終盤、背教の色がとても濃い時代です。そして、背教のしるしのひとつに、良心の問題があるように感じています。

 

 

ある人たちは健全な良心を捨てて、信仰の破船にあいました。(第1テモテ1章19節)

 

 

健全な良心を捨てることで、信仰が破壊される。

 

 

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善によるものです。(第1テモテ4章1節から2節)

 

 

悪い者の偽りによって惑わされてしまい、イエス・キリストとのいのちのつながりから距離を置くようになるのですね。七年患難の時代になると、良心の麻痺は、さらに深刻なものになるのでしょう。人を殺しても、良心の呵責を覚えないほどのものになるのですね。

 

 

こうした良心の問題は、今でもあります。どうしたらよいのでしょう‥。

 

 

まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。(ヘブル9章14節)

 

 

イエス・キリストが十字架の上でご自身を捧げられたというところに、私たちの良心がきよめられ、死んだ行いから離れさせる力があります。「恵みの時代」である今は、良心がきよめられ、虚しい、死んだ行いから離れて、生ける神とのいのちのつながりを持つことができます。

 

 

しかし、患難期に近づくにつれて惑わしが強くなり、携挙の後には、それが時間を追うごとに、どんどん困難になってゆくのですね。ものすごい惑わしと悪霊の教えがはびこるのでしょう。そのような中で、人は最後まで自力で健全な良心が保てるでしょうか。

 

 

これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。(黙示録9章20節から21節)

 

 

残念なことに、殺されずに残った人々は、良心がきよめられる方向には進んでゆけないようです。

 

 

「恵みの時代」の間に、イエス・キリストを追い求め、きよい良心の上に、私たちの信仰をたてあげてゆくことができますように。

 

 

主の御霊の助けが、私たちひとりひとりにありますように。

 

 

主の御名によって祈ります。

 

 

アーメン

 

 

Maranatha

 

 

☆Cornelius ('-^*)/