2018.03.30

 

「突然の恐怖と目覚めの夢」詩篇73編17節から20節(モトイさんのBlog) 

 

 

あなたは自分の悪に拠り頼み、『私を見る者はない』と言う。あなたの知恵と知識、これがあなたを迷わせた。だから、あなたは心の中で言う。『私だけは特別だ。』

 

しかしわざわいがあなたを見舞う。それを払いのけるまじないをあなたは知らない。災難があなたを襲うが、あなたはそれを避けることはできない。

 

破滅はあなたの知らないうちに、突然あなたにやって来る。

 

(イザヤ書47章10節、11節)

 

 

ー続きー

 

このイザヤ書47章10節から11節の中で、特に私たち、今日を生きるキリスト者、今が、主の日が盗人のように近づきつつあるという事を知っている、感じているキリスト者が注意しなければならない惑わしについて記されています。

 

 

 

どのような惑わしかということをちょっと心に秘めて、私たちに対する反面教師という意味で、それが何かという事を感じていただきたいのですけれども、

 

 

 

このように書かれています。

 

 

 

あなたは自分の悪に拠り頼み、『私を見る者はない』と言う。あなたの知恵と知識、これがあなたを迷わせた。だから、あなたは心の中で言う。『私だけは特別だ。』

 

しかしわざわいがあなたを見舞う。それを払いのけるまじないをあなたは知らない。災難があなたを襲うが、あなたはそれを避けることはできない。

 

破滅はあなたの知らないうちに、突然あなたにやって来る。

 

(イザヤ書47章10節、11節)

 

 

 

アーメン。突然、破滅が忍び寄っているのに、彼らは、それを知らないのですね。分からない。感じる事ができないということです。詩篇73編でいうところの突然の恐怖が彼らに襲う(詩篇73編19節)というのと同じ預言です。

 

 

 

第一テサロニケ5章2節から3節の、主の日が盗人のように来るのにそれを知らない彼らは、「平和だ。安全だ」と言って、安逸をむさぼっている。その時に滅びが、突然彼らの上に襲いかかる。

 

 

 

私たちは、主の日が盗人のように忍び寄っているということを知っているので、この滅びには遭いませんというのが、パウロの言ったことであり、私たちに対する神の約束ですけれども、

 

 

 

主を恐れることは知識の初めである。(箴言1章7節)

 

 

 

知識とか知恵が、バビロンの人たちを惑わせた。世の終わりの人々を惑わせているということは、私たちキリスト者も気をつけるべきだと思います。

 

 

 

このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。

(コロサイ2章3節)

 
 
主を恐れることが知識の初め、知恵の初めであるのが、キリスト者の、神の民の基本です。そして、知恵と知識の宝のすべては、キリストに隠されていると新約聖書は教えています。
 
 
 
私たちの知恵と知識の宝のすべては、キリストのうちに隠されているのです。
 
 
 
神は永遠の方、無限の方なので、この知恵と知識を知れば知るほど、神の偉大さ、この知恵と知識の大きさ、私がまだ何も知らなかったということを感じる偉大さをますます感じて、神の前に、人の前にへりくだると、私は自分自身を戒めています。
 
 
 
しかし肉には、この世的な知識と同じように、知恵や知識を扱ってしまいたいという衝動があると思います。
 
 
 
ちょこっと何かを知ったら、「俺は何かを知っているぜ!」といったように高ぶって、「おまえは、これを知らないんだ」と、あたかもこの世の知恵、知識と同じように扱ってしまい、惑わされてしまったら、この世が私たちを捕らえて、引きずり込むでしょう。
 
 
 
しかし、知恵と知識の宝はすべてキリストのうちに隠されているという基本に立つと、キリストが私たちをとらえてくださるために、知恵とか知識そのものではなくて、その出所である隠されているところであるキリストに、ますますつながろうと思うのではないでしょうか。
 
 
 
 
「こんなことを知っている。アイツらダメだよね。知らないんだもん」という誘惑に駆られて、なにか悪いしもべのように、しもべ仲間をバンバン打ちたたいたり、実際に言わなくても心の中で、「あいつ、ダメだよね」とバンバン打ちたたいたら、
 
 
 
この世の知恵や知識と同じように、キリストのうちに隠されている知恵と知識の宝を扱ってしまっていると言えると思います。
 
 
 
私はそのように自分自身を戒めて、もし私がこのすばらしい神、永遠の方、無限の方を少し多く知るのであれば、さらにこの方が永遠の方、無限の方であることを感じ取ることができるので、きっとますます神の前に、人の前にへりくだるであろうと思うようにしています。
 
 
 
なにか肉は、ちょっと知ると「こんなことを知ってしまった」という肉的な高揚感で他人を低くしてしまい、自分は、こーんなに高い、自分はこんなことを知っているんだと言いたがる。
 
 
 
そのように人を見て、「俺はなにかを知っている」と思った時点で、私たちはキリストにつながっておらず、知恵と知識を握りつつあるといったように自分自身を戒めるべきだと私は考えます。
 
 
 
こうしたことを前提において、私たちは「主の日は盗人のように来る」ことを知っていて、知識があるという、その「主の日が盗人のように来ています」ということのしるし、
 
 
 
私たちが見ている、また知っているしるしをちょっとまとめました。これももちろん、キリストをさらに知りたいという思いにつなげてもらいたいという意味でまとめてみました。
 
 
 
ー続くー
 
 
 
 
 
 
 

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