2018/01/21

 

そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

 
ふたりの女が臼を引いていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
 
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
 
だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。
 
(マタイ24章40節から44節)

 

 

ー続きー

 

この第一テサロニケの5章というのは、有名な4章16節から18節の中で、キリスト者が引き上げられる、雲の中に一瞬にしてあげられるという携挙の説明の続きで、だからこそ「兄弟たち…」と、そのような意味で続いている箇所です。

 

 

 

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、

 

次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

 

こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

 

(第一テサロニケ4章16節から18節)

 

 

 

第一テサロニケの5章1節から4節までをお読みします。

 

 

 

兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。

 

主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。

 

人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。

 

しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。

 

(第一テサロニケ5章1節から4節)

 

 

 

アーメン。私たちは油断せずに祈る者なので、それらが突然、たとえ平和だ安全だと言って、飲んだり食べたり、めとったり嫁いだりしている、そういう神を知らない人々の中に暮らしていたとしても、

 

 

 

私たちに突然その「突然の滅び」が襲うことはない。祈りの姿勢があるので、私たちは守られるということです。しかし裏を返して言えば、私たちにその姿勢がなく、ついついこの世にのめり込んでしまい、埋没してしまえば、

 

 

 

私たちも「ノアの日」「ロトの日」の人々のように、「平和だ、安全だ。この世はずーっと続くんだよ」という気になってしまうかもしれない。見えていると思っている私たちなら、なおさらいっそう主の日の訪れ、盗人のように来る、人の子であるイエス・キリストのお迎えを待ち望んで、この時代を祈り深く生きる。

 

 

 

そうすることによって、キリストのことば、マタイ24章40節から44節のこのことばが成就するということであろうかと思います。

 

 

 

こう書いてあります。

 

 

 

そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

 
ふたりの女が臼を引いていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
 
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
 
だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。
 
(マタイ24章40節から44節)
 
 
 
アーメン。思いがけない時に来る。その直前の状況に今、私たちはいます。その直前の状況というのは、先週のメッセージ『その時の雰囲気』での、神を信じているキリスト者がうめいているという、そういう状況でもありますけれども、
 
 
 
ノアの日、ロトの日のように、突然の滅びがやって来ているのに、世の人が飲んだり食べたり、めとったり嫁いだりという、この日常に埋没している状況であると聖書は私たちに警告しています。
 
 
 
ですから、なおさらいっそう、私たちの神様の時計であるイスラエル民族の、その状況を見て、私たちも緊張感を持って、今日という日を歩むべきであろうかと思います。
 
 
 
聖書のいろいろな終末預言は、あの中東の約束の地、イスラエルというイスラエル民族の国家、ユダヤ人の国家があって初めて成就する、そういう聖書預言です。エルサレムを中心として、ユダヤ人国家を中心として、終末のいろいろな預言は成就します。
 
 
1948年までは、そもそもイスラエルという民族国家は、あの土地になかった。そして1967年まではイスラエルという国家があっても、旧市街がヨルダンに支配されていたので、聖書のみことば通りに世の終わりの預言が成就する状態ではなかった。
 
 
 
しかしいまは、その時代の準備が神様の側ではすでに整っている。エルサレムもイスラエルも、神の側では怒りを降り注ぐ準備が整えられているし、メシアニック・ジューといわれる信仰を回復したユダヤ人たちも増えつつある。
 
 
 
私たちの側では、準備は整っていますか?目をさまして見えていると思っているなら、なおさらいっそう、私たちはその終末の時計を意識して、今日という日に祈りつつ歩むべきであると思います。
 
 
 
いろいろな状況があると思います。個人個人でいろいろな状況をみなさんも歩いていると思いますけれども、終末の時計を意識する時に、私たちの神様の大きな流れ、預言という流れの中で、どこにいるのかということが意識できると思います。
 
 
 
永遠の世界に向かっているこの世界が、世の中の人にとっては、その永遠というのは意識できませんけれども、私たちにとって永遠の世界に向かっている、私たちの立ち位置。神の怒りが降り注ぐその時代がすぐそこまで来ているということを確認して、今日という日を神とともに、神につながって祈り深く歩むべきであろうかと思います。
 
 
 
今週も、この神様としっかりとつながって、今日という一日の枠内で祈りつつ歩んでまいりましょう。
 
 
 
ひとことお祈りいたします。
 
 
愛する天のお父様。感謝いたします。
 
 
どうぞ、聞いてくださったおひとりおひとりをあなたがかえりみてください。
 
 
おひとりおひとりがかかえている、この地上での問題も、今あなたの御前におささげします。
 
 
その祈り課題を、あなたがあなたの栄光によって問題を解決し、おひとりおひとりがそのことによって祈りの答えを受けとり、祈ることの楽しさを、さらに覚えることができますように祝福してください。
 
 
また今週、おひとりおひとりがさらにあなたを見て、祈ることの楽しさを味わい知ることができますように、祝福してください。
 
 
さらに祈らせてください。さらにあなたを見せてください。
 
 
感謝します。
 
 
感謝して、愛する主イエス・キリスト様のお名前を通して、祝福してお祈りを捧げます。
 
 

アーメン

 

 

最後まで聞いてくださって、ありがとうございました。(^^)

 

 

-Fin-

 

 

 

 

 

 

2017年9月24日『しるしとしてのイスラエル』(ゼパニヤ書2章1節から2節)の動画です。

 

 

 

 

 

 

 

10,000 Reasons - Song By Matt Redman (Ft.Stevev Samuel Devassy)

 

 

聖書を読んでいますと、主なる神様とイスラエル、特にエルサレムは切っても切れない関係にあると感じます。

 

 

1948年5月14日に建国宣言を行い、国家としてイスラエルがふたたび「約束の地」、聖書ではおなじみのカナンの地に出現したのですが、このことを少し調べてみたら、本当に奇跡的な出来事だったということが見えてきました。

 

 

一度滅びてしまった国が、2000年という期間を経て再び現れたことも驚きでした。しかしそれ以上に、建国を快く思わない国々が、5倍強という圧倒的な軍勢でエルサレムに攻め上ったにもかかわらず、イスラエルが存続し続けたということも、とてもあり得ないようなことです。このたび『新版 中東戦争全史』(山崎雅弘 朝日文庫)を読んで、そのことをあらためて感じました。

 

 

この本には、建国宣言に至る背景とその後の出来事が書かれているのですが、読んでみますと、宣言直後からイスラエルの人たちが大変な状況下に置かれていたことが分かります。

 

 

5月14日の建国宣言の翌日、1948年の5月15日になると、ヨルダン軍とエジプト軍を中核としたレバノン、シリア、ヨルダン、イラク、エジプトの五カ国が15万の軍勢を率いて戦争に突入して、建国直後で、まだ軍隊のないイスラエルとのあいだで第一次中東戦争が始まりました。

 

 

イスラエルは急いで部隊らしきものを作り、あちらこちらから中古の武器をかき集め、3万人で反撃をしますが

 

 

5月18日、ヨルダン軍の精鋭部隊はエルサレムを包囲して激しい砲撃を加え、オリーブ山からゲッセマネの丘を通り、エルサレムに入って、5月28日にはエルサレムの旧市街にいたユダヤ人部隊は降伏。

 

 

ところが…

 

 

エルサレムの新市街は陥落せず、休戦へ。

 

 

その後も第二次、第三次、第四次中東戦争と、戦争に明け暮れた時代が続きます。ところがこのときもイスラエルは消滅せずに、むしろ領地を拡大し、多くの犠牲を払いながらも国家として存在し続けました。

 

 

とくに第三次中東戦争では、エルサレムを巡る戦いが勃発しました。この戦いの結果、イスラエルの空挺部隊がエルサレムの旧市街に突入して、「嘆きの壁」を奪取し、聖地解放の儀式が行われます。こうしてヨルダン川西岸とゴラン高原、ガザ地区がイスラエルの支配地域となりました。1967年6月のことです。

 

 

こうなりますと、ただ単なる奇跡と言うだけの出来事ではなく、なぜなのかと、その原因をあらゆる角度から調べたくもなります。

 

 

しかしそこのところも聖書にはしっかりと書かれていて、イスラエルの神、主なる神様のご計画に基づく神の言葉の成就。それが建国できた理由だと示している…。

 

 

それも紀元前600年代の預言者ゼパニヤ、紀元前580年頃の預言者エゼキエル、紀元前700年代の預言者イザヤを通して語られた神のみことばが実現したことがその理由だというのですから、本当にすごいことが起きたのだとビックリしていました。

 

 

このイスラエルに対する神のご計画が、建国も含めて3つ存在していて、大患難の前、大患難の最中、大患難の一番終わりに起きてくることがあるというのが、今回のモトイさんのメッセージでした。

 

 

1948年にイスラエルの国が神のみことば通りに誕生したのなら、そのあとの預言も当然実現する。そのところから、いま私たちに示されていることは何か。

 

 

異邦人の時の終わり、すなわちヤコブの苦難の時が近づいていて、主の訪れの時が近づいていると思われるいまこのとき…

 

 

しかしいまは、その時代の準備が神様の側ではすでに整っている。エルサレムもイスラエルも、神の側では怒りを降り注ぐ準備が整えられているし、メシアニック・ジューといわれる信仰を回復したユダヤ人たちも増えつつある。
 
 
 
私たちの側では、準備は整っていますか?目をさまして見えていると思っているなら、なおさらいっそう、私たちはその終末の時計を意識して、今日という日に祈りつつ歩むべきであると思います。
 
(『その時代の準備』から)

 

 

「終末の時計」を意識して、今日という日に祈りつつ歩む私たちでありますように。

 

 

 

 

 

ブログを読んでくださり、ありがとうございます。(^^)

 

主の平安がおひとりおひとりにとどまり、祈りに励むことができますように。

 

 

いつも恵みのお分かちをしてくださっているモトイさんに感謝いたします。(^^)

 

主の恵みがますます注がれて、大胆にみことばが語られてゆきますように。

 

体調が守られますように。頭痛がいやされますように。

 

 

いつも主イエスの恵みで、私たちの必要を満たしてくださる主なる神様に感謝いたします。

 

驚くべき神様。

 

必ずおっしゃったことは、なし遂げられる方の御名をあがめます。

 

主のみこころが、この時代に行われていることを、私たちにはっきりとお示しくださり、感謝いたします。

 

おひとりおひとりに福音のとびらが開かれて、イエス・キリストを受け入れる人たちが、この日本でも毎日あらわれますように。

 

 

まもなく来られる主、愛するイエス・キリストのお名前によって、感謝してこの祈りを御前におささげいたします。

 

 

amen(^^)

 

 

Maranatha

 

 

☆Cornelius☆(^^)/

 

 

神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。

 

(第一テサロニケ5章9節)

 

 

 

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