この度は母(昭和19年4/21生まれ)が2015年6月26日以降、消息が途絶え、事実上拉致監禁状態でありその前日の正午に、私が、警官により不当に右上腕を複雑骨折させられ母の事に関して知る権利や母や私の人権さえも奪われていることに関してお話しがあります。
以下、私の記憶の範疇で極力客観的な事実を述べたいと思います。

2014年2月7日、私の父(昭和18年3/10生まれ)が紆余曲折(末尾の付記に記載)あって死去し、その前後において同居していた母と一人っ子である私は、心身ともに疲れきって二人暮らしをしていました。
母は糖尿病を患っておりながらも飲食業(深夜業)を営んでいました。
 また、私の方は有り難いことに過去の履歴を各企業から評価して頂きヘッドハンティングやプライベートオファーの依頼があったのですが、勤務先が東京本社や福岡市が多く、母が私と離れて暮らすことを拒み私としても父が亡くなったこのタイミングで母を一人にしておくことは心配だったので、母を介護しながら個人的に公認会計士等の学習をしていたこともあり、ビジネスのアイディアがあったので、事業を行うために必要な事業計画やデータ収集をして商工会議所に事業計画の提出を翌日に控えていました。
 先に述べた通り、母は糖尿病を患っておりへモグロビンa1cの数値が高く合併症が心配だったので掛かり付けの病院に通ってました(母の体調が悪いときは私が代理で薬を取りに行っていました。)。
母の病状は良かったり悪かったりしながらも自らの体調と相談しながら店を開けており常連のお客さんとのコミュニケーションも母にとってはある意味ストレス発散の場でもありましたが、それから父の件を契機に、心身ともにストレスが極度に溜まり、お店も休みがちになり、私も母のことが心配になって色々と愚痴を聞いてあげたり手伝いをする頻度が増してきました。
母が独り言を言って、私が夜中に毎日のように起こされ、私自身の気力も体力も落ちていく一方でした。

そのような状態が長引くなるにつれ、もっと前向きに母の体調を改善でき、私は今後の将来の目標に専念できる方法がないか色々な相談センターに相談していました。
そして、最終的には役所の保険福祉課しかないとアドバイスをいただいてそちらに相談することにしました。
2015年の始め頃に、少し母の言動がおかしく感じ、その時は救急車を呼び、何故か八幡東警察署も来て、その日は母は警察署に一泊保護され、翌朝市立八幡病院へ行き、白石 康子精神科医の診察を受けレビー小体型認知症の可能性はあるが特定できないとのことでした。そして、白石 康子精神科医は、突然「お母さんをどうさせたいのか!?ショートステイに行かせたいのかハッキリ答えなさい!」と大声で頭ごなしに怒鳴り付けられて、私は乱暴な口調に酷く困惑し、また、白石 康子精神科医は「医者とは喧嘩しない方がいいよ!」と勝ち誇ったように言っていました。私は、母を懸命に介護していたにも拘らず私が悪者のような扱い方を受け、酷く傷つきました。ドクターハラスメントだと感じました。その時は、私はショートステイというものがどういうものなのか知らず、いきなり迅速な回答を迫られてもどうして良いのか分かりませんでした。以前に、直方中村病院という認知症専門の病院に入院したときに母はとても嫌がっていたので、母にとってそれが良いものかどうか瞬時に決断することは難しかったのです。結局ショートステイをなかば強引に決めさせられた形になりました。なお、その医師は私の顔を一切顔を向けず、こちらに向かい合うことなく、そっぽを向いてひたすらPCばかりを凝視していました。
 この時は2日ほど母はシヨートステイで過ごし、その間も、私と母は頻繁に電話で話すことができました。そして、私の介護疲れが酷い時は、ショートステイのシルバーメイトというところに何度かお世話になっていました。

そのような日々を過ごしていたのですが、平成27年6月25日の午後3時頃にショートステイの約束をしていたにも拘らず「近くによったので。」と午前10時頃にやって来て、母をショートステイに連れていこうとしましたが、母がそれを拒んだためしばらくして家に戻ってきました。そして、午後3時の筈なのに正午頃、呼ぶ声が玄関から聞こえ、母が「どなた様ですか?」と言いながらドアを開ける音がしました。私は、母の介護で疲労が溜まっており睡眠不足もあり、仮眠をとろうと思ってうたた寝をしていました。「何だろう?ケアマネージャーの山西さんとショートステイの人かな?」と思いながら、母が先に応対してくれたので、寝ぼけ眼で横になっていました。そうすると、もう一度、呼ぶ声が聞こえたので私は身体を起こして部屋から出て玄関の方へと行きました。すると玄関口で応対していたはずの母の姿がなく、そこには警察官らしき服装(らしき服装と表現したのは、きょうび警察官の変装をすることは難しいことではないし、私個人としても警察官の服装をまじまじと観たことがないからです。)をした男たちが複数人無言で怪訝そうな目付きで立ちはだっていました。
母が何処に行ったのか心配になると同時に、身に覚えのない突然の珍客に驚愕しました。私は、母は何処に行ったのかと慌てて玄関から出ると、一人の男性警察官が私の両手首を掴みました。両手首を掴まれると、とても身の危険を感じ、防衛本能が働いて反射的に右手首だけでも外そうとし、なんとか右手首を放すことが出来ました。すると今度は、もう一方の警察官が私の右手首を両手で掴み、二人の男性警察官がそれぞれ両手で私の左手首と右手首を掴み、「一体何なんですか?」と私は言い、二人の男に両手首を掴まれると、それを回避するには攻撃的防御しかないのですが、警察に抵抗すると公務執行妨害に成りかねないと瞬時に思い無抵抗のまま両腕に力を入れてて耐えておりました。
右手首を掴んだ警察官は、無抵抗な私に執拗に食らいついて、私の腕に間接技か何か必死にかけようとしていたのは感じとられましたが。玄関から出て右側に母の姿が見えホッとして胸を撫で下ろした矢先、右にいた警察官は片腕同士だとビクともしないので「この馬鹿力が!」と言いながら手首を掴んだ警察官が、私の右手首を両手で掴むや否や私の手首を思いきり捻りながら全体重をかけて下の方へ引き下げ、私の上腕部の辺りがバキッと鈍い音をたてて腕が上がらなくなってしまいました。日頃のストレス解消でもしたかったのでしょうか?
その際右を向くと、八幡東区役所地域包括センターの荒巻さんともう一人役所関係の人間らしき男性の後ろに母の姿が見えました。
母は「何するのあなた達!息子の大事な右腕を怪我させて!」と、かなりヒステリックに叫んでいました。
私としては、訳がわからない状態でした。ただ母の介護をしながら今後の事業経営のためにの準備をしていただけなのに、突然の警察署名も名乗らず、警察手帳も見せず、どのような用件で家に来たのかも言わず、一体何が起こったのか解りませんでした。
いきなり無言で両腕を捕まれたら防御本能が働くはずです。男二人に両手首を捕まれて身の危険性を覚えることは当然至極だと思います。
後に、同警察署の刑事さんに、その事を尋ねたら「それは人間として当然の行為だと思います。」と言われました。
私は、母の介護をしていただけで、刑法その他法に触れるようなことはしていない認識があったので、このようなことをされて尚更驚きました。

直ちに救急車が呼ばれ、北九州市八幡東区春の町にある済生会病院へ搬送されました。
搬送途中警察から「あなたは法律の勉強をしてるから解るよね?公務執行妨害で逮捕。」と言われました。しかし、何の公務なのかなのかさっぱり解りませんでした。
私が、その暴力を振るった警察官に名前を訊ねると、その警察官は名前を名乗らす黙って無言のまま睨み付けていました。顔は今でも覚えています。今思い返すと、その警官は何度か見たことがあります。母親が、子離れできていないせいか、私が母に頼まれて車で買い物に行ってる間に母が心配になって電話で捜索願をしてて、私は運転してるときは、スマートフォンをドライブマナーモードにしているので着信に気付かず家に帰ると玄関の前に警察官が何人か立っていることがあったからです。本来行うべき公務に私情を挟んでいるのではないかと思えるほどその警察官は、ストーカーのごとく私のことを知っていて粘着し、まるで憂さ晴らしでもするかのように警察という立場を利用してやりたい放題しているように思えました。日頃の色々なストレスが溜まって警察が、必要以上の私的感情を交えての暴力行為を働くことが多発しているというのはニュースやネットで見たことがあります。最初から敵意むき出しの態度だったので非常に疑わしいです。私が、九州大学を卒業し公認会計士等各種の資格の勉強していることをあらかじめ知っていてそれに対して言及していることから鑑みてもその事が窺われます。そのようなことを言及することが警察官としての任務に必要不可欠とは思い難いからです。何故、介護疲れ等で身も心もボロボロになっている弱者を、あんな酷い骨折をさせる(他に手段があったはずです)必要性があったのが是非とも伺ってみたいものです。こちらとしては正当な主張があります。母を隠し、用件も言わず、警察であることも語らず黙っていかがわしい目付きで突っ立ったままであることは私にとっては警察としてあるまじき行為なのか疑問を感じ任務懈怠であるという印象が拭いされません。警察官は危険と隣り合わせで大変な任務だとは思いますが、だからと言って、むやみやたらに必要以上の暴力を振るって良いという権限はないはずです。警察官だって一人の生身の人間です。警察がやることだからと言って先入観で正当性を判断することは、決して正しいことではないのではないかと思います。仮に、警察という立場を悪用して、やりたい放題やっている警察官が一人もいないと問うたならば、果たして完全否定できるでしょうか?警察行政の民主的な良識が問われるのではないかと思われます。 いま、骨折をさせられて2年間経とうとしていますが、私の右腕は、未だ金属のボルトとプレートが入っており、一向に治らずとても不自由な生活を母の安否を心配しつつ毎日独りぼっちで暮らしてます。医者も驚くほどの重症です。このような暴力を行う必要のあったシチュエーションであったのか、見識を問いたいものであります。
そして、救急車で済生会病院へ行き、一通りの診断を受けた直後に釈放と言われました。間もなくして、母も食べ物と飲み物をもって心配て駆けつけてくれ、警官の行為に対して怒ってました。それから病院を出ようとしていたらある
八幡東警察署の刑事さんか「私もよくわからないのですか事情聴取を骨折して痛いなか恐縮ですがご協力願いませんでしょうか?」と。私は疲労困憊していましたが身の潔白を立証するために八幡東警察署に行くことにしました。刑事さんたちは「お辛いところすみません。こんなケースは初めてでして。」と何度も言っていました。
質問関しては全て清廉潔白であることを正直に答えたのですが「あなたは警察官の胸ぐらをつかみましたか?」という質問には違いますと何度も何度も明確に答えたにもかかわらず、全く修正してもらえませんでした。そのときの服装はあまり見てないのですが、そもそも防弾チョッキでおおわれていてどこが胸ぐらなのかもわかりません。そもそも、その時は両手首を掴まれていたので胸ぐらなど掴みようがありません。警察側としては、正当性を主張したいのでしょうが、その目論みも虚しく、事実とは異なります。
後ろめたさがあったのか、警察側の対応としては、手術費用も入院費も全部警察側が負担して送り迎えも協力するとのことでした。刑事さんは謝罪していましたが、警察官は不貞腐れているような態度でした。
長々と尋問に時間がかかり母のことも気がかりだったし私も疲労困憊だったので直ぐに帰路に着いたのですが部屋の中には母はおらず、直ぐに母の携帯電話にかけてみると、母は「今、八幡東警察署に保護されてる。腕の方は大丈夫?明日の朝戻れるみたいよ。じゃあまた明日なるべく早く帰るよ。お客さんの予約も入ってるし。」と深夜にやり取りをして、私は疲れきって眠ってしまいました。
つまり、私が長々と事情聴取を受けている間、母は警察署に保護されていたようです。
しかし、翌朝(6月26日)起きてみると母は帰っておらず、慌てて八幡東警察署に電話すると「お母様は午前8時に署を出られましたよ。そのあとのこと私たちの関知することではないので。」と言われました。母が行方不明になって2ヶ月程してから母の妹である私の叔母である高瀬美知子から電話で初めて分かったことですが、叔母はは、6月25日の深夜に地域包括支援センターの荒巻さんから警察署に呼び出されたらしく、「警察が荒巻さんにペコペコして何かお願いしてたみたいよ。」と言ってました。それから叔母は明け方くらいまで荒巻さんと一緒に母を入所させる施設を探し回り、結局、母は叔母の気に入った施設に入れられたのだそうです。その際に「何考えてるの!?アンタ!」と母に言われ、叔母は、頬を叩かれたらしいです。母の気持ちは痛いほど解ります。翌日お店のお客さんが集まるのでお店を開ける予定だったにも関わらず意図せず強引に施設に連れていかれたのですから。

そして、私が骨折させられた唯一の証人である母親が、消息不明になったわけです(実際、母は私が搬送された病院で病院にマスコミに言う!法的手段をとる!と大きな声で言ってました)。八幡東警察署と八幡東区役所は通妨虚偽表示をおこなった可能性があるのではと疑いたくもなります。母の捜索願いを依頼したところ「関知しない!」と語気を強めて言われました。

八幡東区役所の地域包括支援センターに電話をしたり、骨がくっついてない腕を首からぶら下げながら役所に行って聞いたりしましたが「お母様は安全なところにいます、あなたは骨折の治療に専念してください。」(これは荒巻さんと猿渡さんが勝手に話し合って決めたそうなんですが)とのことでした。
八幡東区役所の地域包括支援センターは最初は「兎に角待っていてください。貴方は骨折の治療のとに専念してください」というスタンスをとっていて、いつ母に会えるのかと聞いても質問に答えず、また、何故会えないのかという質問にも答えてもらえませんでした。
最初は、私が「せめて手紙だけでも母に渡してください」と言うと「渡しておきます」という対応をして、「お母様からの手紙です」と渡された手紙の内容は明らかに母の書いた文字ではありませんでした。「お母様に何かあったら知らせます」と言われましたが、何かあってからでは困ります。
そのうち時間が経つに従い「もう手紙は渡せない」に変わり、とうとう「もうお母様に会えないので自分の人生を送ってください」という対応に変わっていきました。

どうやら、6/25の夜から母は、警察署に8時まで保護されていて、それから地域包括支援センターによって、名称も場所も 連絡先もわからない何処かの施設に連れ出され携帯電話の電源も誰ものかに切られ事実上拉致監禁状態になってしまったようです。どうやら高齢者虐待防止法を適用しているらしいのですが、何をもってそのメルクマールとしているのか。地域包括センターが、八幡東区役所に私が「母親を殴り殺す」と言い、警察には「母を殺す」と言ったなどと全く身に覚えのない主張していますが、ではいつ、役所のどなたにそのようなことを言ったのは答えてもらえません。そもそも、母を殺すなどといった内心的効果意思は私には微塵もありません。また、用事もないのに八幡東警察署に電話すらしてません。役所は「6月25日にお母さんが2回警察に通報した」と言ってますが、その日の母の携帯電話の発信履歴を見ても警察に通報した痕跡は無かったので、母が警察に電話したという事実関係は認められません。

私は2015年6月26日以降突然母がいなくなり今日に至るまで毎日毎日母の心中をおもんばかったり健康状態が心配で、おまけに利き腕の上腕骨折で一人きりで不自由な生活をしており心身ともに日々衰弱の一途を辿っています。母はその翌日、常連さんと予約を交わしてお店を開ける予定だったし、その次の日は何か集まりごとに出席しなければならなかったのですが、母のお店も開いてないし携帯電話の電源も切られてるし集まりごとにも出席できるはずもなくお客さんや多くの地域住民がとても心配してくださって騒ぎになっています。確かに母も「明日はお客さんが集まるのでお店を開けないと困る」と言ってました。私も何度も地域包括支援センターに電話したり伺ったりしても何も答えてもらません。他の心配してくださっている方々に説明の仕様がなく大変困惑しております。医療設備があるのかどうかすら教えてもらえず、また、お店に関しても母が居なくなって営業ができず固定費が大きくなるばかりで取引先関係も滞り、店の家主は弁護士まで雇って法的な手続きをとろうとし、当の営業主である母が拉致監禁状態なので払う意思があっても払えないのが現状です。

八幡東区役所は、こちらの内部事情も厳密に把握することなく、私達の思いも考えることもなく、母をどこかの施設に画一的なマニュアルに基づき或いは私情(私情というのは、母は父の件で感情的になり毎日のように朝から晩まで当時の地域包括センターの宮嶋さんと言い合っていたからです。母の件も統括支援センターとして宮嶋さんが親戚に電話したりして関わってます)を挟んで、逆に 私達を虐待しているように感じられます。

八幡東区役所は親戚関係には姑息にそれぞれ異なる説明をしているようで親戚と話をしても聞かされた説明が矛盾しているので、親戚と一緒に同行して全員同時に説明をして貰おうとすると「説明は一人ずつじゃないとダメです。」と言われたのですが、何故そんなことをしないといけないのでしょうか。役所側に後ろ暗いことがないのならば、堂々と全員集めてその正当性を主張すれば済む話だと思います。

また、最近訪問看護の方に聞いてとても驚いたことがありました。八幡東区役所、病院、訪問看護の間で私達に関する情報が文章で共有されているらしいのですが、担当の訪問看護の方に「あなたがお母さんに大量に薬を飲ませたのは本当なの?」と聞かれましたのです。それは事実とは正反対の情報です。私はそれを聞いたとき、事実をねじ曲げるにも程があると思わず呆れて笑いすら出てきました。事実は以下の通りです。
母が統合失調症治療薬であるクエチアビンを大量に持っていて、それをインターネットで調べると糖尿病は禁忌と書かれてあったので母に尋ねると「副作用として眠気を誘発する作用があるので飲んでた」と言っていたので、私が「この薬はそもそも統合失調症の薬だしお母さんは糖尿病が悪化するから飲んじゃダメだよ」ともう二度と飲まないように説得し約束して全て処分しました。どうやら母はお店のお客さん(母はさっちゃんと呼んでましたが)から大量に貰っていたようです。
しかし、約束していたにもかかわらず母が直方中村病院に入院して居ないときに八幡東区役所の人が母の部屋に入ったときに、どうやらまた同じ薬を貰ってしまったようで母の部屋の布団の下に大量ありました。八幡東区役所の人はそれを見て私が薬を大量に飲ませたと安直に思い込み、或いはこじつけたのかもしれません。不思議でなりません。

おまけに、母の妹である叔母と一緒に八幡東区役所で待ち合わせをして一緒に母の事に関して話を聞きに言ったことがあり、私が八幡東区役所の個室の相談室に入り叔母が来ないので期を改めて叔母と二人で話を聞きたいとだけ告げて帰ったことがあったのですが、そのときに私が「母親に薬を大量に飲ませたと自ら認めた」と八幡東区役所は主張し、それを根拠とした情報が共有されているのだそうです。

私はそんなの根の葉もない出鱈目で寧ろ真逆ですよと言ったら、看護師は「まさか、役所が嘘つくわけがない!もしそれが嘘だったら大変なことですよ」と言っていました。そのまさかなのですが。

叔母はそれ以降「私は役所に騙された!何だか怖くて気持ち悪いのでもうこの件に関わらない!」と言って連絡がとれなくなりました。そして「お姉ちゃんの鞄、気持ち悪いからもう要らない」と言って母が持っていた鞄を私が叔母から受けとりましたが、持っているのなら直ぐに息子である私に渡してくれば良いのにと思いました。
その母の鞄の中に母がメインに利用していた銀行のカードが入っていて私はその従来利用していたパスワードが無効になり銀行から新たに割り当てられたことを知っていたのでいたので残高の確認を試みたのですがエラーの限度数を超えていたので確認できませんでした。その前に誰かが母の口座から引き出そうと試みたかもしれません。と言うのも役所や叔母から色んな親戚が母の口座のパスワードを聞かれ従来のパスワードを教えたというのを聞いたからです。それではエラーも出る筈です。
 
警察や役所や医者のやることはすべて正しいという一般概念を悪用して勝手気ままにやりたい放題私たち家族の生活をかき混ぜています。
付け加えるなら、八幡医師会の山西ケアマネージャーと八幡東区の春の町にあるシルバーメイトというショートステイの人が母をシルバーメイトに連れていくために家に来て、先ず山西ケアマネージャーがベッドに仰向けに横になっている母に歩みより色々と話をしていました。しかし、母は「あなた嫌い」と山西ケアマネージャーに言いました。母は彼女のことを気に入らなかったようです。そうすると、いきなり山西ケアマネージャーが母の上半身を起き上がらせるためなのか母の手首を掴み強引に引っ張ろうとしました。そうすると母が「痛い、痛い、何するの?」とかなり痛そうにして、そばで見ていた私も内心ヒヤヒヤしていました。彼女のそういった行動は虐待以外の何物でもありませんでした。そのあとシルバーメイトの人が加わり二人で母の上半身と下半身を持って急いで玄関先に置いてある車椅子の方へ運ぼうとしていましたが途中で母が「待って。目眩がする。」といって私も母が可哀想で居てもたってもいられず思わず「あ、ちょっと。」と声が出てしまいました。母が目眩を訴えているのならば少し休ませてあげてもっと丁寧に反でもらいたかったらです。そうすると、二人は母をベッドに戻し無言でとっとと帰っていってしまいました。
仕方がないので母に再びショートステイに行くことを確認した上でもう一度お願いするために山西ケアマネージャーに電話でお願いすると「こちらも忙しいけど、もう一度シルバーメイトに連絡して行けたら行きます。」という返答がきました。
暫くすると、玄関のチャイムが鳴りドアを開けると山西ケアマネージャーの姿は見えず先程のシルバーメイトという名前のショートステイの人一人のみ車椅子を持って立っており、先程は母の部屋のなかに入ってきたにも関わらず「私は家の中には入れないのでお母さんを運んできてください。」(さっきはズケズケと人の部屋に入ってきたくせに)と言うので仕方ないので私一人で母の両脇を抱えて母が痛くないようにゆっくりと運んでいって車椅子の前までやっとの思いで汗をびっしょりとかきながら息を切らして倒れてしまいました。そうすると、ショートステイの人は「お母さんを車椅子に乗せてください。」と言うので、私は最後の力を振り絞り何とか車椅子に乗せました。その際、私は腰を痛めてしまいました。シルバーメイトの人に「母を宜しくお願いします。」と言って母を見送った後、 私はグッタリして動けず腰を痛めてしまいました。
その後、母と電話で話すと「最初来た人はものすごい力で私の腕を引っ張ってすごく痛かった。なんなのあの人達?あんたが後で脇を抱えて運んだときには痛くなかったけど。」と母は言っていました。母が可哀想だったので私が保健福祉オンブズパーソンに話を聞いてもらって受け入れていただいたのですが、その後にシルバーメイトの人から電話がかかってきて「余計なこというんじゃないよ!アンタがお母さんを引っ張ったんだろ!」と凄い剣幕で怒鳴られました。

以上のように、私は警察と医者と役所の対応に振り回され非常に困惑しております。惑わす言葉を使ったり恫喝したり適当に嘘をついてその場しのぎの対応です。本当に組織的に何を企んでいるのか解らず私と母は何の前触れもなく離れ離れにされ二人の今後の予定も無茶苦茶にされ戸惑うばかりです。

警察官によって骨折させられた私の右上腕は全く回復の兆しも見えないままです。
今は母と二人で育てたねこのナナと二人で母の帰りを待っている状態です。
①私の腕を骨折させた八幡東警察署警察の度を越えた暴力行為(オンブズパーソンに相談したところこれは傷害罪に問われるべきと仰ってました。)
②八幡東区役所の地域包括センターが私達の事情も度外視して好き放題に勝手に母を連れ去ることの公務員職限乱用性の有無
③市立八幡病院の白石康子精神科医のドクターハラスメント
④山西ケアマネージャーの母に対する虐待


                       付記

平成25年おそらく2月15日だと記憶しています、父、安(昭和18年3月10日生まれ 平成26年2月7日没)が血圧が高そうだという違和感を覚えたらしく、長友という女性の友人(私はずいぶん後で知ったのですが、父は深夜に自分の車に排気ガスを引っ張りこんで睡眠薬を飲んで自殺をはかったところ、何故か絶妙なタイミングで彼女が助けたらしいですが、何故、車が何処に駐車してあるか分かったのか、何故、その時刻に彼女が出くわしたのか解りませんが。あまりに話が出来すぎていて逆に不自然に感じます。そもそもこのような場合警察に届け出なければならないのではないだろうかと思いましたが)と、北九州市八幡東区にある社会医療法人製鉄記念八幡病院に行って、頭部の検査をしたところ脳梗塞と診断され、また、その時に右前頭葉に腫瘍が発見されたようです。そのため引き続き入院して、先ずはインフォームドコンセントを受け、開頭腫瘍生検術を行うにあたり、主治医の土持医師から母と一緒に説明を受けました。今後の治療方針についてです。
医師はこう説明しました。「前頭葉の右側に少なくとも良性ではない今後悪性になりうる腫瘍ができており、神経を蝕んで増殖する類いのもの(Oligodendroglioma)なので腫瘍を直接取り除くことは不可能です。なので、放射線治療と同時に化学療法で薬を経過をみながら段階的に強い薬を飲んでいただくので患者さんによっては副作用が現れてかなり辛いかもしれません。私が責任を持って経過を診つつ判断して投与していきます。」
その言葉を聞いて母が、「だいたい多くの病院は3ヶ月程度しか入院させてもらえないらしいですけど途中で退院させられることとかはないですか?」と聞くと、「途中で退院させるようなことはないので安心してください。僕が責任を持ちます。」と土持主治医は答えました。勿論、現代医学において完全治癒には限界があり何事においてもリスクは完全に排除できないのでしょうからその事に関しては了承しました。「それは心強い。しかし責任を持つというのはどういう形で責任を取るのだろう。」と内心思いましたが、やはり、医療の専門家に委ねるしかないと思いました。
そして、父が入院して、一時経ってホッとしていたある日、突然ソーシャルワーカーの児玉 明香さんに呼び出され、「いよいよの状態になったときは、介護医療型施設か個人病院に転院になるのでどちらを希望されますか?」とやさしい口調で聞かれたので私たちは転院をお願いしました。そして、いきなり最近出来たばかりの月12万円の介護施設のパンフレットを渡されました。このようなケースに直面したことは、私達にとって初めてのことで、いきなりそのような金額を提示されても介護施設の相場が解らず、私達は、経済的な観点からも「出来ればもっとリーズナブルな施設はありませんか?」と尋ねたところ、彼女は直ぐに月8万円の介護施設も提示してくれました。
少なくともその時は。
 父が入院して四ヶ月ほど経つと、「もう退院です。もっていちねんです。あとは、行政がすることなので。」と言われたので「話が違います。もう少し入院させてください。またはソーシャルワーカーの児玉さんの提案した個人病院の方へお願いします。」と言っても、児玉さんは今までとは別人のように感情的になって「駄目です!安部 忠さんは、もううちの病院の患者ではない!」と言い放ちました。
私が福岡県医師会に電話すると土持主治医の態度が別人のように変わって、一時間半程母の携帯電話にかけてきてソーシャルワーカーの児玉さんを庇うかのようにな弁明を長々と続けました(こんなに長電話する暇があるのかというくらい)。そして「すみません解りました。引き続き入院させます。」と言ってきました。
すると、2日後、何も家族に退院の報告もなく父が自宅に帰ってきました。目を疑わざるを得ませんでした。
月に一度の通院なのだそうです。私達は訳も解らず放心状態になりました。入院させて頂けると明言されてホッとした矢先に家族に無断で病院から退院させ、「こんなことがあって良いのか!?」と。また、退院させる旨の報告文 あれば、家族として受け入れ態勢を整える心構えの必要があるはずなのに。退院させた理由は、父は「目は見える。耳は聞こえる。手足が動く。」従って入院必要はないのだそうです。
慌てて他の病院を探さなくてはと思い、
他の病院を紹介するようにお願いしたのですが、「え?僕から離れるんですか?」と土持主治医は言いました。
ちなみに電子カルテは一度も見せてもらったことはありません。
最初は父から肉体的な衰えは感じませんでしたが、一週間くらい経つと自分のベッドで寝たきりで、自分の財布をゴミ袋に捨てたり、保険証をなくしたり、携帯電話をなくしたり、いきなり何も言わずにフラフラとさまよったり、ガスコンロの火をつけっぱなしにしたり、玄関の鍵を閉めても鍵を刺したまま抜き忘れたりズボンをはかないまま外出しようとしたり、おかしな行動が日増しにひどくなりました。薬は毎日飲むようにカレンダーに小分けされているのですが、本人は本人は徐々に飲まなくなり、腫瘍を少しでも小さくするための薬だと思って家族で飲むことを勧めたのですが抗がん剤が苦しいといわれていたので飲みたくないのだろうか、或いは飲むことを忘れているのだろうかと父の心中が解らないので困惑しました。
たまには外の空気も吸いたいだろうと思い、脱水症状を起こさないようにポカリスエツトかOS-1を持たせて父も頻繁に摂取していました。それからもベッドで横になってテレビばかり観て、目は虚ろな状態で。何度も病院に連絡しましたが土持主治医とは全く話せず。色々と他の患者さんも掛け持ちしたり、或いは手術のスケジュールなどがあるかもしれませんが、電話で私達の疑問に対して電話で応答していただいたり私達が直接病院のほうに出向いてお話しするためのアポイントメントもとることも出来ず、長々と母に電話する暇あったことを鑑みると不信感を拭い去れませんでした。
父が通院という形で療養している間、なんとなく家族として、息子として父の容体の異変に気づき、いても経ってもいられず病状の進行を把握するためには、1ヶ月に1回の通院で大丈夫なのかという疑念が拭いされず。父も、なんとなく生気がなくなっているような気がしたので、急いでタクシーで製鉄記念八幡病院に連さったのですが、その時は生憎ジ時間外で内科医二人しか対応していただけませんでした。しかも簡易な血液検査しか行ってもらえず、内科医は「軽い脱水症状をおこしているだけでそれ例外は健康です」とおっしゃったので、私達は「こちらの病院に今いらっしゃる他の脳外科医に診察していただけませんか?どうも体調が悪そうなので脳外科医の判断を仰いで必要性があるのなら入院させてください。」とお願いしました。すると、その内科医二人は「主治医ではないと診察することはできません。死ぬか生きるかの緊急性がない限り入院させることはできませんし、内科医としての観点からみて今の時点では健康上その必要性は認められません。私が責任を持ちます。(何故、どの医者も軽々しく責任を持つというのだろう?どういう責任なのだろうか‥?)。」と言われました。
たまらず、翌日改めて時間内に主治医にみてもらうために救急車で製鉄記念八幡病院に運んでもらうように要請したのですが、拒絶され、仕方がないので済生会病院に搬送していただき、そちらの脳外科医(たしか梶原というお名前の脳外科医だったかと記憶しております。彼は帰宅されていたにもかかわらず、わざわざ診察するために病院に駆けつけてくれました)。
その脳外科医に、それまでの治療と頭部の内部の映像(おそらくCTスキャンかMRIの画像の一部が転送されたのではないかと思われます)を診てもらいました。もう、手のほどこしようのないくらい腫瘍が大きくなっているそうです。
その脳外科医が、「今はどのような治療を主治医は施されているのですか?」と訊ねられたので、私は「1ヶ月に1回の通院です。」と答えたところその脳外科医は首をかしげられました。そして、「通常‥患者の主治医が一番把握されて、経過的に診察するはずですが‥。」と言ってました。
父が毎日飲むように言われていた薬の種類はクレストールという血液中のコレストロールを速やかに低下させる薬とプラビックスという血液がサラサラになる薬と胃薬と漢方薬のみなのだそうです。この薬を飲み続けなければならないのか土持主治医に訊ねると。飲んでも飲まなくてもどっちでもいい。」と答えました。
忘れもしない8月6日、父の通院日がやっと到来したので製鉄記念八幡病院にへ連れていこうとしました。
しかし、既に父は自力で起き上がることすらできず、私は何とか父を起き上がらせようとしていた矢先、八幡東区役所の角田 禎子さんともう一人の女性が家を訪れ、私はこれは幸いと思い「すみません!手を貸してください!」と言ったのですが、彼女らは「お弁当食べてますか?」と言い残して踵を還してそのまま帰っていってしまいました。診察予定時間がギリギリに迫ってしまったので、仕方なく私達は救急車を呼び父は救急隊員四人がかりで担ぎ上げられなんとか担架で運ばれ、その4日前から私も母も父の体調が心配で寝ても食べてもなかったですし、母は老齢の上に疲労困憊して体調が心配だったので私だけ救急車で同行し、私はその救急車の中で意識を失ってしまいました。病院に到着すると私の意識は回復し、何とか立ち上がれるようになりました。それから間もなくして看護師らしき女性から 「今、お父さんの診察をしているので30分程待ってください。」と言われ、警護の方に同行してひたすら待っていました。しかし、30分どころか1時間経っても2時間経っても何も報告はなく、警護の方と「えらく長いですねえ。何ででしょうねえ。」と二人で我慢強く待っていました。その間、なんとなく辺りを見回してみるとものすごい数の監視カメラがあることに気がつきました。間もなくして、なにやら病院関係者か役所の人のような格好をしたシャツにネクタイの男性が現れ「もう少しお待ちください。」とお辞儀をし、直ぐに去っていきました。しかし、それから2時間程経ってもいっこうに報告もなく他の看護師や事務員も顔を合わせようともしませんでした。
付き添っていただいていた警護の方も「最初、30分位待てと言っていたこのに。あまりにも長いねえ。何をやっているんだろうねえ。」と、呆れた様子で話しかけ、私も肩を竦めました。
たまりかねて総合受付の男性に「安部 忠は今、どのような処置を施されているか分かりませんか?」と訊いたところ「ちょっと調べます。」と言って、何か内線の電話でヒソヒソ話した後、「わかりません。兎に角待合席で待っていてください」と言われたのて少し待ちましたが、私にはどうしてもその日までに受け取らなくてはならない荷物があったので、「一度、タクシーで家に戻りますが直ぐまたタクシーでこちらに伺います。」と言うと、「ここに居てもらわないと困ります、。」と言ったので「困っているのはこっちなのですか。」と言うと警護の方も苦笑いしていました、私が、「あなたのお名前はなんとおっしゃいますか?」と聞くとその男性は慌てて名札を隠したのです。そのあとタクシーで家路に着き、横になっていた母は「何故こんなに待たされるの?」と驚いていました。その後、代わりに母が病院へ行き、私は横になるや否や疲れはてていつのまにか眠ってしまいました。そして、小一時間経って母が帰ってきて、主治医から「おしっこがでないので脱水症状だ。」と言われたそうです。私は「だから何度も通院日の前に主治医に診て貰おうとしたのに。」と思いました。
その翌日、私と母は父の様子を見るために病院に行きました。主治医は私達に「おしっこが出るようになりました。うちで入院させますので、もう心配しなくてもいいですよ。だいじょうぶです。今日のところは帰ってください。おしっこが出るようになったから。」如何にも父に私たちが家での介護を怠ったかのような口ぶりでしたが父の病気の性質上喉が乾いているのかどうなのかも二十四時間体制で様子を見ることは現実的に不可能で、夏の暑い盛りでしたから水分は父のそばに置いていました。父は単純な足し算も文章も書くことができない状態でした。父自身の欲求が当人ですら分からない状態で自宅での療養では限界があるにもかかわらず何故、家族の同意なくいきなり退院させたのか大変疑問に感じるところであります。しかも、入院させる意思表示が主治医自らあった先った矢先に。あれだけ病院で長時間にわたり処置を施さなければならなかったことが自宅療養の通院でできるとでも思ったのでしょうか?私達は本当に苦しめられました。この主治医は医師としての正当な注意をら払ったと言えるのでしょうか?ある日、そちらへ父を連れていき内科医の医師は脱水症状を起こしているにもかかわらず入院する必要はないとおっしゃった旨を主治医に伝えると「その通りです。彼は優秀な医者だから。」と言い放ちましたが´内科医の判断では入院の必要はない。´、´脳外科医の判断では入院の必要がある。´。矛盾しているのではないでしょうか。治療方針として抗悪性腫瘍剤投与と書かれており、私に主治医は、「やってません。最初から。」と言われて呆れました。私はね念のために書類を写真撮影しており主治医の発言もボイスレコーダーぬ録音しております。
母は「言ってることとやってることが真逆じゃないの!なんで?なんで?」と繰り返すばかりです。母は心身ともに調子が悪くなってしまいました。無理もないと思います。その時には、母がショックで頭が混乱している様子だったので、心療内科に連れていき薬を処方してもらいました。
そして、追い討ちをかけるように8月9日付けで突然、角田 禎子さんから文章が送られてきました。
父は施設に行くらしいのですが、その施設の名称も連絡先も教えてもらえず、3日程前には携帯電話で話をすることが出来たのですが、何故か留守番電話設定になってました。父の当時の病状で不可能なはずです。メールもまともに打つこともできなくなっていたのに。
そして、父のことに関して説明があるそうなので母も私も疲れきっているなか、8月27日に暑い盛りになんとか製鉄記念八幡病院に、行くことができました。
当初は、土持主治医、角田さん、ソーシャルワーカーの児玉さんの3人と私と母での面談はずでしたが、向こうは八幡東区役所保険福祉課と宮嶋さんと製鉄記念八幡病院医事課長の石飛さんわ含めた5人でした。
土持主治医からは医学的なことをカルテも持参せず「あれはいつだっけ?」と言いながら手書きで説明を受け、一時間程で帰っていってしまいました。また、父の病名はもっと悪性度の高いミックスドグリオーマであることがかなり経って判明したそうです。あまりの診断結果の特定の遅さに私達は唖然としました。あまりにも杜撰ではないでしょうか?その後一時間は、役所の角田、宮嶋さん、児玉さんが残りましまた。「お父様の衣服を持ってきてください。」と言っただけで父のいる施設の名称や場所や連絡先も施設に入った理由も教えてもらえませんでした。父がどのように生活しているか知りたかったのに一体何のためにわざわざ病院まで来たのかわからずじまいでした。
今後、父の症状が悪化する一方で、先ずは目が不自由になり、腫瘍が大きくなるにつれて脳を覆っている膜を圧迫して凄まじい頭痛を引き起こすらしいので医療設備の整った八幡東病院に最初に電話したときにはその病院の男性ソーシャルワーカーの方が父の病状やこれまでの経緯を懇切丁寧に耳を傾けていただき「ベッドは空いてますが、患者の容体をみて医師の判断を仰いで決めさせていただきます。」と仰っていただいたので私たち家族に明るい兆しが見えたかのように思われました。しかし、結局、どういうわけか問答無用に断られました。
角田さんの直属の上司である梅下 勝巳さんはが八幡東病院に口裏を合わせたらしいです。「何故ですか?」と私が聞いても「答えられません。」の一点張りでした。
当初は、土持主治医は、「役所の判断で連れ去られてしまったので、現在いらっしゃる施設がわからなく、何かあったときには僕が救急車でそちらに駆けつけるようになってます。」と仰っていました。しかし、何度も役所側に糾弾すると最近になって角田さんが「土持主治医に頼まれた、」と明かしました。それ以前に角田さんに電話をしても最初の自信満々のハキハキした口調は影を潜め、別人のように大人しくなり、とうとう他の人が電話対応するようになり本人とはコンタクトがとられなっなってしまいました。
各々の主張をまとめてみると
①土持主治医「役所が勝手に連れていった。」
②角田さん「土持主治医に施設への入所を依頼された。」
③児玉さん「お父さんさんはうちの病院の患者さんではありません。」
それぞれ主張していることが異なり真相を知りたいのですが3人とも職場にいるはずなのに面会はおろか電話だお話すら取り次いでもらいません。
個人的に非常に懐疑心?が拭いされず、仮に口裏を合わせたとしてもあまりにも杜撰とと言わざるを得ません。
全て、家族の同意もなく勝手に行動を起こして事後的に報告し、しかも各々の主張は支離滅裂です。゛地域包括支援゛゛社会福祉゛という美しい言葉を大義名分にした権限乱用の暴利行為の疑念が拭いされません、。実際、父はガン保険や入院保険に入っていたのですが医療施設のないところに連れていかれて私達は保険金で相償うことができず父は治療もされることもなく、角田さんが言うには「お父さんは温泉でチャプチャプしてますよ。」と言う始末です。
そして、根拠も示していただけません。後ろ暗いところがないのならば、何故、説明責任を果たさないのでしょうか?
その後、父がそのようなことになった理由を梅下勝巳さんに何度も詰問したところ、彼は、ぶっきらぼうに「虐待。」と言い放ちました。彼は、私達家族の実情をどの程度把握されているのでしょうか?しかも、あれだけ頑なに理由も教えないと言っていたのに「ずいぶん安易に返答されたものだなあ。」と思いました。私達は病院や役所の理不尽な対応に振り回され父の介護を懸命にやって来たつもりでした。入院するはずだった父が突如病院を追い出されて私達は受け入れ体制も整わずまま必死で父を看病しました。土持主治医に連絡を何度もとっても全く受け合ってもらえません。電話すらもヒトコトも耳を傾けてくれませんでした。冷暖房の機能を備えた100万円以上するベッドに父を寝かしてあげましたが、日がたつに連れて父の病気の性質上暑いのに寒いと言ったりどのように対処して良いのかわかりませんでした。また食事面においても父はそのような欲求がないのかなかなか食べてもらえませんでした。
ある場所で父と同席で角田さん達と父の病状について話し合う機会を設けましたが私が「父がなかなか食べてくれない。」と角田さんに、相談すると「そんなのスプーンを口許に持ってきてやって「あーん」と言えば簡単にお口を開けますよ」と言いましたが、父の病気の性質上不可能です。よくよく私が「角田さんは父の病名をご存じなのですか?」と訪ねたところ「知りません。」とアッサリ答えました。よくそんな無責任なことが言えるなあと思いました。また、角田さんは「お父さんは今どのような状態なんですか?」と聞いてきたので、私は「父本人の前ではとても言えるような状態ではありません、」と父の目の前にしてとてもではないですが言えず、あまりにもデリカシーのない質問だと思いました。虐待しどちらでしょうか?

父は以前から統合失調症で酷い強迫観念があり、その上右前頭葉に悪性腫瘍が進行して事理弁識能力の殆どない父の言い分を一方的に軽重浮薄に鵜呑みにして画一的に老瓶福祉法に当て嵌め八幡東区役所は華族の説明を聞くことなく独断で私達の家庭の事情そっちのけで施設へ連れていったわけです。しかも、驚いたことに角田さんは父の病名やどのような症状かも全く把握されていなかったことを後になって知りました。一番身近にいた角田さんが具体的内容を知らないのならば、家に足も踏み入れたことのない角田さんの直属の上司である梅下勝巳さんも知るよしもありません。よくなにも知らないにもかかわらず適当に軽々しく虐待などといってやりたい放題私達の家族をぶち壊して平然としているものです。気が知れません。管理者としての責任を是非とも問いただしたいものです。当然のことながら母は毎日のように朝から晩まで涙ながらに父を施設から出してもらうように電話で訴え続け、そして、強度に心身ともに疲れきってしまいました。その後、役所が勝手に連れたて行っておいて意味不明の施設料の請求書が届きました。


突然両親を失い、利き腕も未だに不自由な状態が続いています。命がいくつあったら足りるのでしょうか。

共に待ち続けてくれていた猫も天国へと旅立ちました。