ブッダの言葉 - ウダーナヴァルガより ( 3 )
生まれたもの、有ったもの、起こったもの、作られたもの、形成されたもの、
常住ではないもの、老いと 死との集積、虚妄であって壊れ去るもの、
食物の原因から生まれるもの。 ーー それらは喜ぶに足りない。
現世からの出離であって、思考の及ばない 静かな境地は、
苦しみの事柄の止滅であり、作られる働きの静まった 安楽である。
そこには、すでに有ったものが存在せず、虚妄もなく、識別作用もなく、
太陽も存在せず、月も存在しない。 その境地を わたしはよく知っている。
そこでは 月も存在せず、太陽も輝かない。
聖者は その境地についての、自己の沈黙を自ら知るがままに、
形からも、形の無きものからも、一切の苦しみから完全に解脱する。
悟りの究極に達し、恐れる事無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い
人は、生存の矢を断ち切った。 これが 彼の最後の身体である。
教えを説いて与える事は 全ての贈与にまさり、
教えを味わう楽しみは 全ての楽しみにまさり、
忍耐の力は 全ての力にまさり、
妄執を全て滅ぼす事は、全ての快楽に打ち勝つ。
他人の過失を探し求め、常に他人を見下している人は、卑しい性質が
増大する。 彼は実に 真理を見る事から遠く隔たっている。
人々は 自我の観念に頼り、又、他人、という観念にとらわれている。
この道理を、ある人々は知らない。
実に彼らは、それを身に刺さった矢であるとは見なさない。
しかし、これを、人々が執著し こだわっている矢であると、
あらかじめ見た人は、「 私がする 」、という観念に害われる事もないし、
「 他人がする 」、という観念に 害われる事もないであろう。
この世の中の人々は慢心を持っていて、常に慢心にへばりつかれている。
悪い見解に取り付かれていては、努力しても 生死流転を超える事は
できない。
すでに得たものと、これから得られるはずのものと
ーー この二つは 塵ほこりであり、病気であると知って、
心を安定統一した知者は それを捨てよ。
上にも下にも全く情欲を離れた人は、「 私はこれである 」、と、思う事が
無いので、そのように解脱して、未だ渡った事の無い流れを この世で
渡り、再び迷いの内に生まれる事はないであろう。
見る力ある人は、他の見る人々を見、又、他の見ない人々をも見る。
しかし 見る力無い人は、他の見る人々をも見ないし、
又 見ない人々をも見ない。
もしも姿を さらに洞察して見るのならば、単に姿を見るという事は無い。
又、もしも単に姿を見るのならば、姿をさらに洞察して見るという事は
無い。
多くの人々は、単に姿を見るだけであって。
姿を さらに洞察して見るという事が無い。
しかし、姿を さらに吟味洞察して見る人は、常に姿を見る事が無い。
分かち与える人には 功徳が増大する。
自らを制御するならば、人が怨みをいだく事は無い。
良い人は 悪事を捨てる。
良い人は、情欲と、怒りと、迷妄とを捨てるが故に、煩悩の覆いを逃れる。
すでに旅路を終え、憂いを離れ、あらゆる束縛を逃れ、
解脱した 気高い人には悩みは存在しない。
愚人は束縛によって迷っているが、賢者は束縛を断ち切る。
聡明な人は 束縛を取り除いて、ここに 神々と人間との全ての束縛を
断ち切って、あらゆる苦しみから解脱する。
真理を教え、人々を輝かすべし。 仙人の幡を掲げよ。
幾多の仙人は、真理を重んじ、常に 善を語る事を旗印としている。
