ウダーナ ヴァルガ 第十章 信仰
信ずる心あり、恥を知り、戒めをたもち、また財を わかち与える。
―― これらの徳行は、尊い人々の ほめたたえることがらである。
「 この道は 崇高なものである 」、と かれらは説く。
これによって、この人は天の神々の世界におもむく。
物惜しみする人々は、天の神々の世界におもむかない。
その愚かな人々は、分かち合うことをたたえない。
しかし この信 ( まこと ) ある人は、分かち合うことを喜んでいるので、
このようにして来世には 幸せとなる。
信 ( まこと ) は 人の最高の財である。 徳を良く実行したならば、幸せを
受ける。 真実は、実に 諸々の飲料のうちでも最も甘美なものである。
明らかな知恵によって生きる人は、生きている人々のうちで最もすぐれた人で
あると言われる。
尊敬さるべき 真人たちに対する信仰を財とし、安らぎに至るための教えを
聞こうと願うならば、聡明な人は いろいろの事について明らかな知恵を得る。
人は、信仰によって 激流を渡り、つとめはげむ事によって 海を渡る。
勤勉によって 苦しみを捨て、明らかな知恵によって 全く清らかとなる。
信 ( まこと ) は 男に伴れそう妻である。 知恵が かれを教えさとす。
修行者は 安らぎ ( ニルヴァーナ ) を楽しみ、迷いの生存の束縛を断ち切る。
信仰と戒めとをたもち、生きものを傷つけず、つつしみあり、自らをととのえて
いる人は、汚れを去った賢者であり、「 端正な人 」、と呼ばれる。
信仰あり、徳行そなわり、ものを執著しないで与え、物惜しみをしない人は、
どこへ行こうとも、そこで尊ばれる。
生きとし生ける者共の間にあって、信仰と 知恵とを得た賢い人にとっては、
それが実に 最上の宝である。 そのほかの宝は つまらぬものである。
諸々の聖者に まみえようと願い、正しい教えを聞くことを楽しみ、物惜しみの
汚れを去った人、 ―― かれこそ ( 信仰心ある人 ) と呼ばれる。
信仰心の深い人は、人生の旅路の糧 ( かて ) を手に入れる。
それは盗賊も奪うことのできない福徳である。 盗賊が奪い去るのを防ぐ。
功徳をともなう修行者らは、人々に愛される。
修行者らが来たのを見ては、賢い人々は歓び迎える。
もしも人が これらの悪徳、飽かざる思いを絶ち、ターラ樹の先端のように
根絶やしにしたならば、その人は 昼も夜も 心のやすらぎを得る。
信仰の無い人とつき合うな。 水の干乾びた池のようなものである。
もしも そこを掘るならば、泥くさい臭いのする水が出て来るだろう。
ゆえに、信仰心あり 明らかな知恵ある人とつき合え。
―― 水を求めている人が湖に近づくように。
そこには、透明で清く澄み、冷ややかで、濁りの無い水がある。
好きな人だからといって なじんではならない。 人はそこで砕かれてしまう。
清い信仰心の無い人を遠ざけて、清い信仰心のある人に近づくべきである。
( 注 ) ウダーナ ヴァルガ は、スッタ ニパータ や、ダンマ パダ より 少し遅れて成立した
仏典であると考えられている。 時代が進むにつれ、信仰がより強く説かれはじめる。
この章では特に ( 信仰と 施与 ) について述べている。
ウダーナ ヴァルガ の中にも、真正の ブッダの言葉であろうと思われるものは多い。
留意したい点として、ここでも説かれているが、信仰を仏教に限定していない。
( 諸々の聖者に まみえようと願い、正しい教えを聞くことを楽しみ、物惜しみの汚れを
去った人、―― かれこそ 信仰心ある人。 と呼ばれる。)、つまり 他の宗教の教えで
あっても、その教えが正しいものならば、それを信仰する人は、信仰心ある人である。
という事であって、信仰を仏教に限定しない、という思想も 仏教の教えである。
ちなみに、滋賀の三井寺にも、聖母マリアの神像が 礼拝されて展示されている。
岩波文庫ワイド版 「 ブッダの 真理のことば 感興のことば 」 中村 元 訳
目次 ―― 真理のことば ( ダンマ パダ ) 感興のことば ( ウダーナ ヴァルガ )
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