ブッダの言葉 ( 箭経 )
( ある王族の幼い娘が病死し、葬儀のあと林の中で火葬して荼毘に付された。
しかし その母親は悲しみのあまり 夜になってもその場を去ろうとしなかった。
困り果てた親族はブッダを呼んだ。 その時にブッダが母親ウッビリーに語った言葉 )
母よ、 そなたは、「 ジーヴァーよ ! 」、 と言って、林の中で泣き叫ぶ。
ウッビリーよ、 そなた自身を知れ。
すべて同じ ジーヴァーという名の 八万四千人の娘が、
この火葬場で荼毘に付されたが、それらの内の、誰をそなたは悼むのか ?
その子が来た、又、去って行った道を そなたは知らず、
又 その子が どこから来たのかも知らないのに、
「 わが子 ! 」、 と言って そなたは泣き悲しむ。
しかし、その子が来た、又 去って行った道を そなたが知っているならば、
そなたは かれの為に悲しまない。
請われないのに、かれは、そこからやって来た。
又、許しを得ないのに、かれは ここから去って行った ―― 。
どこかからやって来て、数日間住んだあとで。
かれは、そこから一つの道を通ってやって来た。
かれは ここから他の一つの道を通って行くであろう。
人間のかたちをとって死んで、輪廻しつつ過ぎ去るであろう。
来た時のような姿で去っていった。
そこに何の悲嘆をする要があろうか。
これは今日だけの定めではない。
奇妙でもないし、不思議でもない。
―― 生まれたならば、死ぬのである。
常に、生きとし生けるものは そのような定めをもっているのである。
すでに自分自身が自分自身のものではない。
まして子供が自分のものであろうか。
嘆き悲しんだとて、体が やつれるばかりである。
だから、「 かれはもう わたしの力の及ばぬものなのだ 。」、 と悟って、
悲しみの矢を抜きなさい。
たとえば、家に火がついているのを 水で消し止めるように、
そのように、悲しみが起こったのを 速やかに滅ぼしてしまいなさい。
( 注 ) この経典は、NHKでも 放映され朗読された事がある。
短い経典ではあるが、実際にあった出来事を弟子が記憶していたものと思われる。
注意深く読むと、仏教がよくわかる。
幼い娘を亡くして 泣き叫ぶ母親。 その情景は我々の胸を打つ。
一見しただけでは、ブッダの言葉は冷たいと思われるかもしれない。
夜になっても ウッビリーは泣き叫んでいたというから、誰の慰めの言葉も役に立たず、
狂乱状態であったのだろう。
それに対してブッダは 悟らせ 悲しみの狂乱から 救い出そうとしている。
まず、ブッダは、母親 ( 当時、一般に母親は尊敬されるべき対象であった。) に、
「 母親であるあなたが 林の中で泣き叫んでいる。 ウッビリーよ、そのような
あなた自身を見なさい。」、
という事実を つきつける。 そして無数の子供たちがここで荼毘に付されたのだ、
と告げる。 ( 嘆き悲しんだのは、あなた一人ではないのだよ )、と。
「 かれは そこから一つの道を通ってやって来た。」、というくだりは、輪廻の世界に
おいては、親子といえども 違った道 ( 人生 ) を宿命としている、と さとしている。
さらに、「 人は皆いずれ死ぬ運命であるから、あなた自身も すでに自分が 自分自身の
ものではない。 まして子供が自分のものであろうか。」、と語りかける。
「 その子が去った道を知らずに、あなたは泣くが、その子が去った道を あなたが知って
いるならば、あなたは その子の為に悲しまない。」、という言葉は、「 子供は天界に
行ったのだから、子供の事を思うなら、悲しむことはないよ。」、という意味である。
そして、最後に、「 悲しみの矢を抜きなさい。」、と告げて、慰めている。
わが子を亡くした母親に安易な慰めは通用しない。 覚醒させ道理を説いて悟らせて
救い出す。 ここに見られる ブッダの言葉以上のものがあるだろうか。
ウッビリーは、正気を取り戻し、「 あなたは私の胸に刺さっていた悲しみの矢を抜いて
下さいました。」、と ブッダに答えている。
この経典は パーリ語に訳されて 五百年間弟子たちによって語り継がれ、約二千年ほど
昔に、仏典として編纂されたものであるが、原文は命令形の言葉ではない。
ブッダは、当時の俗語である マガダ語で、もっとわかりやすく、ウッビリーに語りかけて
いたのであろうと考えられている。
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