五木寛之 著 「 私訳 歎異抄 」 より
 
 
 
         
         ―― ある時、親鸞さまは、こう言われた。
 
 
 
  すべての人々を 一人残らず その苦しみから救おう というのが、阿弥陀仏
 
という仏の 特別の願いであり、誓いである。
 
 その 大きな願いに 身をゆだねるとき、人は おのずと明日の命を信じ、
 
念仏せずには いられない心持ちになってくる。
 
そして 「 南無阿弥陀仏 」 と 口にするその瞬間、私達はすでに まちがいなく
 
救われている自分に気づくのだ。
 
 この 阿弥陀仏の たてられた誓いに、差別はない。
 
その約束は、老人にも 若者にも 幼児にも なんの区別なく、また世間でいう
 
善人、悪人にも 関係がない。
 
ただ一つ、ひたすら信じる心こそ 大切なのだと しっかり心得なさい。
 
 阿弥陀仏の本願というのは、この世で悩み苦しみ、そして 生きるために
 
数々の罪を犯している私たちを助けようという、真実の願いから たてられた
 
約束である。
 
その約束を信じるならば、ほかのどんな善行とよばれるものも 必要ではない。
 
念仏、すなわち 仏の誓いを信じ その願いに身をまかせて 南無阿弥陀仏 と
 
となえることこそ、究極の救いの道だからである。
 
 自分の 愚かな心や、邪悪な欲望や、犯した罪の深さに怖れおののくことなど
 
ないのだ。
 
阿弥陀仏の ちからづよい願いと 誓いのまえには、その光を さえぎる悪など
 
ありはしないのだから。
 
 
 
 
  みなさんがたは、十数国の国境をこえて、いのちがけで この親鸞の所へ
 
やってこられた。   
 
その ひたむきなお気持ちには、わたしも感動せずにはいられません。
 
 しかし、さきほどからうかがっておりますと、あなたがたは、なにか 念仏以外
 
にも 極楽往生の道があるのでは と考え、それをわたしに おたずねになりたい
 
一心から、ここへおいでになったように見うけられます。
 
 率直に申しあげるが、それは 大きなまちがいです。
 
 
 わたしたちが救われて 極楽浄土へ導かれる道は、ただ 念仏する以外には
 
ありえない。  そのことのほかに、もっと大事な極意があるかもしれないとか、
 
特別な秘法についての知識を わたしが持っているのではないか ・・・  などと
 
勘ぐっておられるとしたら、それは まことに情けないことです。
 
 そういう お気持ちなら、奈良や 比叡山などに、有名な すぐれた学僧たちが
 
たくさんいらっしゃいます。  その方々にお会いになって、極楽往生の様々な
 
奥義を おたずねになってはいかがですか。
 
 
 わたし 親鸞は、「 ただ、念仏をして、阿弥陀仏に おまかせせよ。 」  という、
 
法然上人の おことばを そのまま愚直に信じているだけのこと。
 
 念仏が ほんとうに浄土に生まれる道なのか、 それとも 地獄へ落ちる行い
 
なのか、わたしは知らない。  
 
そのようなことは、わたしにとっては どうでもよいのです。   
 
 たとえ 法然上人にだまされて、念仏をとなえつつ 地獄に落ちたとしても、
 
わたしは断じて 後悔などしません。
 
 
 そう思うのは、このわたしが 念仏以外の どんな修行によっても救われない
 
自分であることを、つね日ごろ 身にしみて感じているからです。
 
 ほかに 浄土に救われる手段があり、それにはげめば 往生できる可能性が
 
もし あるというのなら、 念仏にだまされて 地獄に落ちた という後悔もあるで
 
しょう。   
 
愚かにも 念仏にたよったという 口惜しさものこるでしょう。
 
 しかし、煩悩にみちた このわたしにとって、念仏以外の ほかの行は、
 
とても およばぬ道です。  
 
 ―― ですから地獄は、私の定めと 覚悟してきました。
 
 阿弥陀仏の約束を真実と信じるならば、釈尊の教えを信じ、また 善導の説を
 
信じ、そして 法然上人の お言葉を信じるのは 自然のことではありませんか。
 
その 法然上人の教えを ひとすじに守って生きている この親鸞なのですから、
 
わたしの申すことも その通り信じていただけるのではないか、と 思うのです。
 
 
 要するに、わたしの念仏とは、そういう ひとすじの信心です。
 
ただ念仏して 浄土に行く。  それだけのことです。
 
 ここまで正直にお話したうえで、みなさんがたが 念仏の道を信じて生きようと
 
なさるか、または それをお捨てになるか。
 
その決断は どうぞ、あなたがたそれぞれの お心のままになさってください。
 
 
 
 
         ―― 親鸞さまの おことばによると ・・・・・
 
 
  
  「 他力の念仏を、信じる者も、そしる者も、もちろんいるだろう。
 
釈尊も そのことを語られている。   しかし それを承知の上で、われわれは
 
ひとすじに 念仏を信じてゆくと すでにかたく決めたのだ。
 
 また、こうも言えるだろう。   釈尊の言われるとおり 今現在、わたしたちを
 
そしり 非難する者が確かにいるからこそ、仏が わたしたちを お救いくださると
 
いう言葉も、また まちがいないのだ。
 
 かえって、念仏を信じる人ばかりで そしる人がいないほうが、不自然では
 
ないか。
 
 かといって、必ず 他人から非難された方がいい と言っているのではない。
 
仏は、人から認められる事も そしられる事も 両方とも避けえないものである。
 
と 説いておられる。  その上で、釈尊は、 『 たとえ そしられても、できるだけ
 
 自分の信心に疑いを抱かないように。 』、 と おっしゃっているのだ。 」
 
 
           
          
           ―― 親鸞さまは、そう言われた ――
 
 
 
 
 
 
 ( 過去に 悟りを開いた 仏達。  又、未来に悟りを開く 仏達。  又、多くの人々の
 
  憂いを除く、 現在の世の 仏達 ―― 。
 
  正しい教えの師である これら 全ての人々は、過去にもいたし、現在にもいるし、
 
  又、未来にも いるであろう。   これが 諸仏の決まりである。 )  
 
                                     
                                     ゴータマ ・ ブッダ
 
 
 
 
 
「 今日、わたしは 英語で書かれた 親鸞という本を読んだ。   もしも わたしが
 
 若いころに この本を読んでいたならば、わたしはギリシャ語などを勉強せずに、
 
 日本の この聖者の教えを 世界中に広めるために、日本語を勉強したであろう。」
 
 
                                   哲学者 ハイデッガー
 
 
 
 
 
 
                                            ・