・
楽天主義
こんな時代 ・・・・・ 誰にとっても、楽天的であるという事は 逆境にある時でも、そうでない時
でも、大切な心の支えになるのではないかと思う。
仏教には、 「 楽天主義 」、 という側面がある。 ブッダの弟子たちには 楽天家が多い。
仏教によって創作された戯曲は多い。 それらの演劇を公演する事で、布教をしていたのである。
( ナーガーナンダ ) などの仏教戯曲を、何か高尚な話と思って読むと 期待に反して、至る所で仰天の
笑い話が出て来る。
又、あるバラモンが ブッダに、 「 ここ サンガにいる人々 ( 仏弟子と信者たち ) は、皆楽しそう
ですが、なぜなんでしょう ? 」、 と問うと ブッダは、 「 彼らは 過去を思って悔やむ事もない
し、未来を思って 願う事 ( 心配 ) もない。 ただ現在の事だけで暮らしています。
だから楽しいのです。」、 と答えられている。
ある時、ある仏弟子が、ブッダに 無意味な形而上学の、哲学的質問をした事がある。
ブッダは、 「 そのような議論は、平安 ( 涅槃 ) に導くものではないから答えない。 ( 無記 )
汝は、私が説いた事を 説いた事として、説かなかった事を 説かなかった事として授記せよ。」
と返答されている。
( 平安へ至る道 )、 これが仏教の旗印である。 意外にも 楽天主義、という観点から見ると 仏教と
ブッダの言葉が、よく理解できる。 「 身に刺さった苦しみの矢を抜け 」、 という詩句も多い。
浄土宗は、 「 人は誰であろうとも、ひとたび 南無阿弥陀仏を念ずれば、極楽往生間違いなし ! 」
と説いているのだから、これにまさる楽天主義はない。
親鸞聖人の浄土真宗では、 「 人は、すでに仏に救われて 生かされているのだから ・・・ 」、
という 報恩念仏である。
―― 「 ミリンダ王の問い 」 ―― より
( 念仏による救い )
この対談は、紀元一世紀に インド北部を統治した、ギリシャ人の ( メナンドロス ) という国王と、
当時最高の 仏教指導者であった、聖者 ナーガセーナの対論であって、世界最初の ギリシャ哲学と、
東洋仏教思想との 迫力ある対決でもある。
( ミリンダ王の問い 第二、 念仏による救い )
王は問う。
「 尊者ナーガセーナよ、あなたがたは このように言われます。 ―― 『 たとい百年間悪を行なっ
ても、臨終に ひとたび仏を念ずる事を得たならば、その人は天上に生ずる事ができるであろう。』、
と。 私はこの事を信じません。 また、あなたがたは、このように言われます。
『 ひとたび殺生を行なっても、地獄に生まれるであろう。』、 と。 私はこの事も又信じません。
この両刀 ( 矛盾 ) を、どのように説明できると言うのですか ? 」
「 大王よ、あなたは どのようにお考えになりますか ? 小さい石でも 船なくして 水の上に浮かぶ
でしょうか ? 」
「 尊者よ、そうではありません。」
「 大王よ、百の車に積むほどの石くずでも、舟に乗せられたならば、水の上に浮かぶでしょうか ? 」
「 尊者よ、そうです。 水の上に浮かぶでしょう。」
「 大王よ、( 善行 )、は あたかも 船のごとくに見なされるべきであります。」
「 ―― もっともです ・・・・・ 尊者、ナーガセーナよ。」
―― ミリンダ王の問い より ――
―― ブッダは、多くの盗賊をも 改心させて 弟子にしていた。
ブッダの言葉に、 「 人が過去によって悪行をなすとも、善によって それをつぐなうならば、
彼は 雲を離れた月のように この世を照らす。」、 という詩句が残されている。
メナンドロスの、 「 善と不善と、どちらが大で、どちらが強いか。」、 という質問に答えて、
ナーガセーナは、 「 善の方が 大で強い。」、 と答えている。
インド人は 我々のなした悪をも、宗教的な功徳によって 償却できると考え、又、人間は 善の方へ
赴く可能性が大きいのであり、人間の究極の運命については、きわめて楽観的に考えていた。
これは 仏教の教えが、厭世思想を説くにもかかわらず、究極において いちじるしく楽観的である
という事である。 又、インドの戯曲には、ギリシャのそれと異なって 悲劇というものがない。
ナーガールジュナ ( 龍樹 ー 紀元一世紀半 ) の主張したところによると、仏教には、「 難行道」 と、
「 易行道 」、 がある。 易行道とは、水路を舟に乗って進むようなものであると言う。
そして彼は、特に 阿弥陀仏 ( アミターバ、無量寿光 ) を信ずるという 易行道の実践を説きすすめた。
後世になって、法然上人が それを日本に伝えたのだった。
『 観無量寿経 』、 の中には、次のように説かれている。
「 諸仏如来は、究極の真理を身体としている。 そうして 生きとし生ける者どもの心の働きの中に
入りたまう。 この故に 汝らが心に仏を想う時は、この心が そのまま仏にほかならぬ。
この故に 一心に 念 ( おも ) うて、あきらかに如来 ( 阿弥陀仏 ) を観ずるべきである。」、 と。
中村元氏は、 「 仏教はブッダ以来、人間の平等、階級や身分制度の撤廃を主張し、インド思想史上、
画期的な教えを主張した。 ―― 仏教は、対 社会への実現に 最も努力したのである。」、
と 書いている。 古来より 仏教は、理想世界への思想を説き、その実践を果たしてきた。
現代の経済危機や、自然環境破壊は、元々 宗教の教えに従っていれば回避できたものと思う。
これからは、諸々の聖者の教えに立ち戻って、平和と 調和と 博愛を実現できる可能性を信じたい。
そして、修行を楽しみ、仏教の持っている ( 楽観主義 ) に従って 生きていきたい。
・
楽天主義
こんな時代 ・・・・・ 誰にとっても、楽天的であるという事は 逆境にある時でも、そうでない時
でも、大切な心の支えになるのではないかと思う。
仏教には、 「 楽天主義 」、 という側面がある。 ブッダの弟子たちには 楽天家が多い。
仏教によって創作された戯曲は多い。 それらの演劇を公演する事で、布教をしていたのである。
( ナーガーナンダ ) などの仏教戯曲を、何か高尚な話と思って読むと 期待に反して、至る所で仰天の
笑い話が出て来る。
又、あるバラモンが ブッダに、 「 ここ サンガにいる人々 ( 仏弟子と信者たち ) は、皆楽しそう
ですが、なぜなんでしょう ? 」、 と問うと ブッダは、 「 彼らは 過去を思って悔やむ事もない
し、未来を思って 願う事 ( 心配 ) もない。 ただ現在の事だけで暮らしています。
だから楽しいのです。」、 と答えられている。
ある時、ある仏弟子が、ブッダに 無意味な形而上学の、哲学的質問をした事がある。
ブッダは、 「 そのような議論は、平安 ( 涅槃 ) に導くものではないから答えない。 ( 無記 )
汝は、私が説いた事を 説いた事として、説かなかった事を 説かなかった事として授記せよ。」
と返答されている。
( 平安へ至る道 )、 これが仏教の旗印である。 意外にも 楽天主義、という観点から見ると 仏教と
ブッダの言葉が、よく理解できる。 「 身に刺さった苦しみの矢を抜け 」、 という詩句も多い。
浄土宗は、 「 人は誰であろうとも、ひとたび 南無阿弥陀仏を念ずれば、極楽往生間違いなし ! 」
と説いているのだから、これにまさる楽天主義はない。
親鸞聖人の浄土真宗では、 「 人は、すでに仏に救われて 生かされているのだから ・・・ 」、
という 報恩念仏である。
―― 「 ミリンダ王の問い 」 ―― より
( 念仏による救い )
この対談は、紀元一世紀に インド北部を統治した、ギリシャ人の ( メナンドロス ) という国王と、
当時最高の 仏教指導者であった、聖者 ナーガセーナの対論であって、世界最初の ギリシャ哲学と、
東洋仏教思想との 迫力ある対決でもある。
( ミリンダ王の問い 第二、 念仏による救い )
王は問う。
「 尊者ナーガセーナよ、あなたがたは このように言われます。 ―― 『 たとい百年間悪を行なっ
ても、臨終に ひとたび仏を念ずる事を得たならば、その人は天上に生ずる事ができるであろう。』、
と。 私はこの事を信じません。 また、あなたがたは、このように言われます。
『 ひとたび殺生を行なっても、地獄に生まれるであろう。』、 と。 私はこの事も又信じません。
この両刀 ( 矛盾 ) を、どのように説明できると言うのですか ? 」
「 大王よ、あなたは どのようにお考えになりますか ? 小さい石でも 船なくして 水の上に浮かぶ
でしょうか ? 」
「 尊者よ、そうではありません。」
「 大王よ、百の車に積むほどの石くずでも、舟に乗せられたならば、水の上に浮かぶでしょうか ? 」
「 尊者よ、そうです。 水の上に浮かぶでしょう。」
「 大王よ、( 善行 )、は あたかも 船のごとくに見なされるべきであります。」
「 ―― もっともです ・・・・・ 尊者、ナーガセーナよ。」
―― ミリンダ王の問い より ――
―― ブッダは、多くの盗賊をも 改心させて 弟子にしていた。
ブッダの言葉に、 「 人が過去によって悪行をなすとも、善によって それをつぐなうならば、
彼は 雲を離れた月のように この世を照らす。」、 という詩句が残されている。
メナンドロスの、 「 善と不善と、どちらが大で、どちらが強いか。」、 という質問に答えて、
ナーガセーナは、 「 善の方が 大で強い。」、 と答えている。
インド人は 我々のなした悪をも、宗教的な功徳によって 償却できると考え、又、人間は 善の方へ
赴く可能性が大きいのであり、人間の究極の運命については、きわめて楽観的に考えていた。
これは 仏教の教えが、厭世思想を説くにもかかわらず、究極において いちじるしく楽観的である
という事である。 又、インドの戯曲には、ギリシャのそれと異なって 悲劇というものがない。
ナーガールジュナ ( 龍樹 ー 紀元一世紀半 ) の主張したところによると、仏教には、「 難行道」 と、
「 易行道 」、 がある。 易行道とは、水路を舟に乗って進むようなものであると言う。
そして彼は、特に 阿弥陀仏 ( アミターバ、無量寿光 ) を信ずるという 易行道の実践を説きすすめた。
後世になって、法然上人が それを日本に伝えたのだった。
『 観無量寿経 』、 の中には、次のように説かれている。
「 諸仏如来は、究極の真理を身体としている。 そうして 生きとし生ける者どもの心の働きの中に
入りたまう。 この故に 汝らが心に仏を想う時は、この心が そのまま仏にほかならぬ。
この故に 一心に 念 ( おも ) うて、あきらかに如来 ( 阿弥陀仏 ) を観ずるべきである。」、 と。
中村元氏は、 「 仏教はブッダ以来、人間の平等、階級や身分制度の撤廃を主張し、インド思想史上、
画期的な教えを主張した。 ―― 仏教は、対 社会への実現に 最も努力したのである。」、
と 書いている。 古来より 仏教は、理想世界への思想を説き、その実践を果たしてきた。
現代の経済危機や、自然環境破壊は、元々 宗教の教えに従っていれば回避できたものと思う。
これからは、諸々の聖者の教えに立ち戻って、平和と 調和と 博愛を実現できる可能性を信じたい。
そして、修行を楽しみ、仏教の持っている ( 楽観主義 ) に従って 生きていきたい。
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