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                                いのち




 仏教、特に原始仏典ほど、人間の 『 心 』 と、生と死を考え、人の生き方を説いた 実践哲学は

ほかに無い。


先日、知り合いの女性が 胃ガンで入院した。    彼女には夫と、中学生の二人の子供がいる。

すでに転移していて 手術もできず、時間の問題ではあるが、本人は希望を捨てていない。

死を自覚した人は、人生の回想をするらしい ・・・・・

無念としか言いようがないが、人ごとではなく、命は誰にとっても いつ、どうなるのかは わからない。


 ―― 私は、中学生の時に 県立病院の小児科の ガン病棟に 入院していた頃を思い出した。

六人部屋の病室で、小学生と中学生の ガン患者の子供たちがいた。  

毎日 それぞれの母親が見舞いに来ていた。

小児ガンは、進行が早い。    次々と、手術室に運び出されては、そのまま帰って来ないのだった。

そして又、新しく 子供のガン患者が入院してくる。

ある時、酸素マスクを付けられたまま 別室に運び込まれてきた 女の子がいた。

顔面蒼白で やせ細っていた。  翌日 手術室へと去って行ったが、そのまま帰ってこなかった ・・・

その女の子の、大きく見開かれた美しい目が私を見ていたのを ・・・  今でも忘れる事ができない。


子供というのは単純なせいか、そんな状況でも病室の子供たちと友達になって、毎日楽しく生きていた。

むしろ母親たちの方が、気の毒に見えたのだった。

病室で友人になった子供たちが、次々と去って行く ( 死ぬ ) ので、私も もう半分あきらめていた。

死に対する恐怖も悲しみもないし、どうでも良かった。  なるようにしか、ならなかったからである。


私への、長く続く検査の 痛みの方が苦しみなので、ある時 主治医に、 「 先生、もう手術して。」、 

と言うと、その主治医は 顔を隠して泣いた。

私は ( 99パーセント助かる見込みがない ) とされ、看護師も来ない汚い部屋へと引越しをさせられた。

私自身は平気でいたが、ついに 私の母は耐えかねて ベッドに泣き臥した。

しかし手術をしてみると 特異な症例だったらしく、悪運強く 私だけ生き残ったのだった。



ブッダは、 「 過去は もう無い。   未来は まだ無い。   人は 過去を想って悔やむ事なく、

 未来を想って 願う ( 心配する ) 事なく、ただ 現在において 為すべき事を熱心に為せ。

 誰が明日 死のある事を知ろう。  

 まことに かの 死神の軍勢と会戦せず、という事は 有り得ない。

 ―― そして ただ現在において、克ち得た境地を増大せしめよ。」、 と 説かれている。

身に沁みる気がする ・・・・・



―― 仏典には ある時、子供を亡くして 泣き悲しむ母親に対して、ブッダが語った言葉がある。


 
 「 母よ、そなたは、 『 ジーヴァーよ ! 』、 と言って 林の中で泣き叫ぶ。

 ウッビリーよ。   汝自身を知れ。   

 その子が来た、又 去って行った道を そなたは知らず、又 その子が どこから来たのかも知らないのに

 『 我が子 ! 』、 と言って そなたは泣き悲しむ。

 しかし その子が来た、又 去って行った道を そなたが知っているならば、そなたは かれの為に

 悲しまない。

 
 請われないのに、かれは そこからやって来た。

 又、許しを得ないのに かれは ここから去って行った。

 ―― どこかから やって来て、数日間住んだあとで ・・・


 かれは そこから 一つの道を通ってやって来た。

 かれは ここから 一つの道を通って行くであろう。

 人間の かたちをとって死んで、輪廻しつつ 過ぎ去るであろう。

 来た時のような姿で 去って行った。     そこに 何の悲嘆をする要があろうか。

 
 これは 今日だけの定めではない。    奇妙でもないし、不思議でもない。

 ―― 生まれたならば、死ぬのである。

 常に、生きとし生けるものは、そのような定めを持っているのである。

 すでに 自分が 自分自身のものではない。     まして子供が 自分のものであろうか。

 
 嘆き悲しんだとて、体が やつれるばかりである。

 だから、 『 かれは もう 私の力の 及ばぬものなのだ。』、 と悟って、悲しみの矢を抜きなさい。

 たとえば、家に火がついているのを、水で消し止めるように、悲しみが起こったのを すみやかに

 滅ぼしてしまいなさい。 」


 ―― ブッダは 子供を亡くした母親 ( ウッビリー ) に 説き聞かせ、ウッビリーは、 


「 あなたは 我が胸に刺さっていた、飢え ( 断腸の悲しみ ) の矢を 抜いて下さいました。

 私は ブッダと ダンマ ( 法 ー 真理 ) と、サンガに帰依します。 」、 

と答えている。



又、仏典には このような詩句もある。

 
 「 通常人は、自分が 死ぬという存在である事を 識知 ( 自覚 ) していない。

 しかし、それを常に識知している人は、眠れる者どもの内にあって、目覚めている者である。

 人々が、これを識知して生きるならば、全ての 覚執 ( 争い ) は、静まる。 」



いつか私も ・・・   あの病院で 先へと旅立って行った友人たちとも 再会できるかもしれない。

「 ―― 恥じる事のない 生き方をしよう。」、 と 思うのだった。
 
 

 

 
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