「 座禅の すすめ 」
( 禅 とは、仏典にある ディァーナ ( 瞑想 ) を、音訳したものです。
瞑想の方法は このブログにも、 気功 ( 3 ) 光の方松功 が あります。)
「 仏教を 読む 」
現代は、全部 テレビが お膳立てしてくれたものを 楽しむだけなんです。
( 「 一切は 空 ー 般若心教 」 平田 精耕 氏 集英社 より )
受身の人間に なっています。
みんなが ―― と いうところで 全部 決めてしまっている。
自分の内側から 出て来るものが あまりない。 おれが こうするという事が 少ない。
だから、夏休みに 旅をしなかったら 現代人じゃないように 思ってしまう。
本来の 心とは、もともとは 何もないものなのに、何もないところから、( 惜しい )、とか、( 憎い )、
とかが 生じてくるものなのです。
その 愛憎 好悪、―― あの人は 美人だから好き、不美人だから 嫌い、親切だから 好き、不親切だから
嫌い と いうようなもの ―― は、すべて これ 相対界のことなのです。 比較の世界です。
日常の世界は、実は この相対の世界なのです。
仏教は 人間の心を 問題にするのです。 人間の 肉体を問題にするのは 医者がやっています。
結局 人間は 心に生き、心に 死ぬのです。 そういうものを 我々は、「 こころ 」、と呼んで、
それに従って 生きているのですが、我々が問うのは、その 心の 本源的な部分なのです。
想念 というものは 頭の中に 起こってきます。 ( 黒い机がある )、とか、( 美人がいる )、とか、
( いやらしい男がいる )、とかいう、想念が 起こってくるわけです。
「 色 」、と、「 受 」、( 感受 ) とが結びつくと頭の中に、そういう想念が 起こってくるわけです。
「 色 ー しき 」、は 色気の 「 色 」 ではありません。
現実の世界、いろいろな現象の世界を、「 色 」と 訳されているわけです。
人間には いろんな想いというものが 起こってくるが、これを、( 煩悩 )、( 迷い ) と呼びます。
幸せというのは、苦しみの中にあります。 苦が そのまま楽であり、楽が そのまま苦なのです。
苦しいから、その苦しみが取れたときに なんともいえない 幸せがあるんです。
それでこそ 人生は楽しいものなんです。 全体から見ると、風流なことなんです。
だから、人間は 苦しみを避けようとしてはいけないし、また、避けられるものでもない。
苦しみがあれば 飛び込んでいくのです。 そうすれば、苦しみが 楽しみに転じてくるのです。
嫌な事件に出会うと、( あっ、嫌だな )、と思う。 うれしいことに出会うと、天井で 頭を打つ
くらいに喜ぶ。 いろいろに 喜怒哀楽の心が起こりますが、その 源をたどっていけば 何もない。
ちょうど 鏡のようなもので、色がないから、あらゆる色を映す。 しかし 鏡そのものの色は無色です。
まさに 人間の心というものは、そのようなものであります。
人間というものは、誰でも そうだと思うのですが、世に出て 仕事をしていれば、いろんな問題が
周辺に 起こってくる。 そういうときは、そっと 自分の部屋に帰って、静かにしているに
こしたことはない。 そうすると、波風は そっと治まってきます。
ちょうど、人間の心というものは、そういうものであるのです。
そういうことを狙って、座禅というものが おこるわけなんです。
静かに座禅をしていますと、乱れている 心の波というものが、だんだん 静かな状況になってきて、
元の おだやかな 心の姿に、もどってきます。
( 天竜寺 僧堂師家 平田 精耕 氏 は、今年一月、八十三歳で、他界されました。 合掌 )
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