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仏教 サンユッタ ニカーヤ より ー ( 2 )
修行者たちよ。 この 人間の寿命は短い。 来世には行かねばならぬ。 善をなさねばならぬ。
清浄行を行わねばならぬ。 生まれたものが死なないという事は あり得ない。
たとい 永く生きたとしても、百歳か、あるいはそれよりも少し長いだけである。
悟りを開いた人が 他人を教えさとすのは、人の為を思い、憐れむからである。
修行完成者は 順応と 反論とから解脱している。
黄金や 銀の山があったとしても、それだけでは、一人の人を満足させる事はできない。
この事を知って、平らかな心で行うべし。
苦しみと 苦しみの起こるもとを見た人は、どうして欲情に傾くであろうか。
世間における制約は 束縛であると知って、人はそれを制し 導く為に修学すべし。
世の中には遁 ( のが ) れ去るという事がある。 私は 智慧によってそれを達成しました。
そなたが 愛欲の快楽 と呼ぶものは、私にとっては不快なのである。
過去に悟りを開いた仏 ( 聖者 ) たち、又、未来に悟りを開く仏たち、
又、多くの人々の憂いを除く 現在の世の仏、
―― 正しい教えを重んずる これら全ての人々は、過去にもいたし、現在もいるし、
又、未来にもいるであろう。 これが 諸仏にとっての決まりである。
人が生まれた時には、実に 口の中に斧 ( おの ) が生じている。
愚人は悪口を語って、その斧によって 自分自身を切り裂くのである。
怒る事なく、身がととのえられ、正しく生活し、正しく知って 解脱している人、
心が静まった そのような立派な人に、どうして怒りがあろうか。
怒った人に対して怒らないならば、勝ち難き戦 ( いくさ ) にも勝つ事になるのである。
他人が怒ったのを知って、心に気をつけて、自ら気を落ち着けて 静かにしているならば、
その人は、自分と他人との 両者の為になる事を 実行しているのである。
多くの呪文を やたらにつぶやいていても、人は 生まれによって バラモンとなるのではない。
どのような人でも、精励してつとめ、熱心であり、常にしっかりと 勇ましく行動する人は、
最高の清らかさに達する。 このような人々をバラモンであると知れ。
生まれをたずねるな。 行いをたずねよ。 火は実に 微細な木材からも生じる。
たとい 賤しい家からの出身であろうとも、毅然として、慚愧の念で身を防いでいる、
そのような聖者は高貴の人となる。
母、又は父、あるいは長兄に対し、第四に師に対し、―― これらの人々に 慢心を起こしてはならない。
かれらに対しては 尊敬心をもて。 かれらは この人によって敬われるべきである。
善く説かれた事でも、心が汚れ、争いがちの つむじ曲がりには理解され難い。
争闘を捨てて、争いがちを除き、又、心の不信を除くならば、
その人は、善く説かれた事を 理解するであろう。
バラモンよ、戒 ( いまし ) めを渡し場としている 道理なる湖 ( 正義、真理 ) は、濁りなく澄み、
諸々の善人が、善人の為に 誉めたたえるものである。
そこでは、真の知識を得た聖者たちが沐浴し、五体を清めて彼岸 ( 平安 ) に渡る。
善い人のいない所は、公会堂 ( 議事堂 ) ではない。 道理を語らない人々は、善い人ではない。
情欲と 怒りと 迷妄とを捨てて、道理を語る人々は、善い人々なのである。
快楽と 不快と 生活に執著する思慮とを、すっかり捨てて、何ものにも 欲を起こすな。
欲を離れて、妄執のない者こそ、真の修行者である。
この世における 大地と天界、物質的な形態、いかなるものでも 全て無常であり、老い朽ちる。
叡智ある人たちは、このように知って 日を送る。
人々は、諸々のこだわりの内にあって、見られ、聞かれ、考えられたものについて、縛られている。
人は動揺する事なく、この世に対する欲望を除け。
この世に汚されない者を、聖者と呼ぶからである。
自分を苦しめず、又、他人を害わない言葉のみを 語れ。 これこそ 実に善く説かれた言葉なのである。
快い言葉のみを語れ。 その言葉は、人々に歓び 迎えられる言葉である。
他人に 禍いをもたらす事なしに語る言葉は、こころ良い。 真実は 実に不死の言葉である。
これは 永遠の理法である。 道義も 教えも 真実の上に確立している、と 立派な人々は語る。
「 修行者たちよ。 さあ、今、そなたらを ゆっくりさせてあげよう 。
そなたらは、わたしの 身体の行いについても、言葉についても、何か非難する事があるだろうか。
どうだろうか ? 」 ( ブッダ )
( サンガ ー 集い、にブッダのもとに集まっている修行者達は、それぞれ 林や山の中で修行していたが
満月の日には、皆が集まって 円陣を組み、一人づつ立って、 「 友よ、私の為に、私の行いや、言葉に
ついて、何か 非難される事があれば、どうか私の為に告げて下さい 。」、 と 聞く、うるわしい
儀式が あった。
誰も 何も言わなければ、何も無しという事で、隣の修行者が立って 皆に同じ事を聞く。
いつも 最初に立って それを聞く人は ブッダであった。
ある時などは 高弟のサーリプッタが たまりかねて
「 世尊よ 。 あなたには 何も非難されるような事はありません 。」、 と 言っている。
このように、サンガは、ブッダを頂点としたピラミッド型の組織ではなかった。
ブッダは、 「 自ら努めて 悟りを開け。 わたしは、ただ教えを説くだけである。
自ら悟りを開いた者が 誰を 師と呼ぼうか 。」、 と語り、
唯我独尊 ( 唯我独存 ) を指導されたようである。
又、 「 わたしは皆の友である。 サンガに来た人は、私を友にできるのである。」、 と 語られた。
ブッダが 孤高の聖者といわれる 理由の一つが ここにある。
亡くなる前にも、 「 わたしは 誰一人私の弟子と思った事もないし、又、サンガの皆は わたしに
たよっていると、思った事もない 。」、 と いう言葉を残されている。
亡くなる時にも、 「 友よ、何か 質問が あれば 今、問いなさい 。」、 と 聞かれ、修行者たちが
沈黙していると、 「 自らを 島 ( よりどころ ) とし、真理を 拠り所としなさい 。」、 と、
( 自帰依、法帰依 ) を 告げられている。
しかし中には、ブッダに対する思慕の念が強い修行者もいた。
その修行者は僻地に布教に行かされた。
その人は、そこで病気を患った時、使いを出してブッダを呼んだ。
そして、 「 私は、あなたの そばにいて、あなたを見る事が 楽しみであったのに、あなたは、
こんな辺鄙な所に、私を行かせてしまいました 。」、 と、うらみごとを言うと、
ブッダは、「 それが、あなたの修行のさまたげに なると思ったから、わたしは そうしたのですよ 。」
と、やさしく いましめられたという。 )
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仏教 サンユッタ ニカーヤ より ー ( 2 )
修行者たちよ。 この 人間の寿命は短い。 来世には行かねばならぬ。 善をなさねばならぬ。
清浄行を行わねばならぬ。 生まれたものが死なないという事は あり得ない。
たとい 永く生きたとしても、百歳か、あるいはそれよりも少し長いだけである。
悟りを開いた人が 他人を教えさとすのは、人の為を思い、憐れむからである。
修行完成者は 順応と 反論とから解脱している。
黄金や 銀の山があったとしても、それだけでは、一人の人を満足させる事はできない。
この事を知って、平らかな心で行うべし。
苦しみと 苦しみの起こるもとを見た人は、どうして欲情に傾くであろうか。
世間における制約は 束縛であると知って、人はそれを制し 導く為に修学すべし。
世の中には遁 ( のが ) れ去るという事がある。 私は 智慧によってそれを達成しました。
そなたが 愛欲の快楽 と呼ぶものは、私にとっては不快なのである。
過去に悟りを開いた仏 ( 聖者 ) たち、又、未来に悟りを開く仏たち、
又、多くの人々の憂いを除く 現在の世の仏、
―― 正しい教えを重んずる これら全ての人々は、過去にもいたし、現在もいるし、
又、未来にもいるであろう。 これが 諸仏にとっての決まりである。
人が生まれた時には、実に 口の中に斧 ( おの ) が生じている。
愚人は悪口を語って、その斧によって 自分自身を切り裂くのである。
怒る事なく、身がととのえられ、正しく生活し、正しく知って 解脱している人、
心が静まった そのような立派な人に、どうして怒りがあろうか。
怒った人に対して怒らないならば、勝ち難き戦 ( いくさ ) にも勝つ事になるのである。
他人が怒ったのを知って、心に気をつけて、自ら気を落ち着けて 静かにしているならば、
その人は、自分と他人との 両者の為になる事を 実行しているのである。
多くの呪文を やたらにつぶやいていても、人は 生まれによって バラモンとなるのではない。
どのような人でも、精励してつとめ、熱心であり、常にしっかりと 勇ましく行動する人は、
最高の清らかさに達する。 このような人々をバラモンであると知れ。
生まれをたずねるな。 行いをたずねよ。 火は実に 微細な木材からも生じる。
たとい 賤しい家からの出身であろうとも、毅然として、慚愧の念で身を防いでいる、
そのような聖者は高貴の人となる。
母、又は父、あるいは長兄に対し、第四に師に対し、―― これらの人々に 慢心を起こしてはならない。
かれらに対しては 尊敬心をもて。 かれらは この人によって敬われるべきである。
善く説かれた事でも、心が汚れ、争いがちの つむじ曲がりには理解され難い。
争闘を捨てて、争いがちを除き、又、心の不信を除くならば、
その人は、善く説かれた事を 理解するであろう。
バラモンよ、戒 ( いまし ) めを渡し場としている 道理なる湖 ( 正義、真理 ) は、濁りなく澄み、
諸々の善人が、善人の為に 誉めたたえるものである。
そこでは、真の知識を得た聖者たちが沐浴し、五体を清めて彼岸 ( 平安 ) に渡る。
善い人のいない所は、公会堂 ( 議事堂 ) ではない。 道理を語らない人々は、善い人ではない。
情欲と 怒りと 迷妄とを捨てて、道理を語る人々は、善い人々なのである。
快楽と 不快と 生活に執著する思慮とを、すっかり捨てて、何ものにも 欲を起こすな。
欲を離れて、妄執のない者こそ、真の修行者である。
この世における 大地と天界、物質的な形態、いかなるものでも 全て無常であり、老い朽ちる。
叡智ある人たちは、このように知って 日を送る。
人々は、諸々のこだわりの内にあって、見られ、聞かれ、考えられたものについて、縛られている。
人は動揺する事なく、この世に対する欲望を除け。
この世に汚されない者を、聖者と呼ぶからである。
自分を苦しめず、又、他人を害わない言葉のみを 語れ。 これこそ 実に善く説かれた言葉なのである。
快い言葉のみを語れ。 その言葉は、人々に歓び 迎えられる言葉である。
他人に 禍いをもたらす事なしに語る言葉は、こころ良い。 真実は 実に不死の言葉である。
これは 永遠の理法である。 道義も 教えも 真実の上に確立している、と 立派な人々は語る。
「 修行者たちよ。 さあ、今、そなたらを ゆっくりさせてあげよう 。
そなたらは、わたしの 身体の行いについても、言葉についても、何か非難する事があるだろうか。
どうだろうか ? 」 ( ブッダ )
( サンガ ー 集い、にブッダのもとに集まっている修行者達は、それぞれ 林や山の中で修行していたが
満月の日には、皆が集まって 円陣を組み、一人づつ立って、 「 友よ、私の為に、私の行いや、言葉に
ついて、何か 非難される事があれば、どうか私の為に告げて下さい 。」、 と 聞く、うるわしい
儀式が あった。
誰も 何も言わなければ、何も無しという事で、隣の修行者が立って 皆に同じ事を聞く。
いつも 最初に立って それを聞く人は ブッダであった。
ある時などは 高弟のサーリプッタが たまりかねて
「 世尊よ 。 あなたには 何も非難されるような事はありません 。」、 と 言っている。
このように、サンガは、ブッダを頂点としたピラミッド型の組織ではなかった。
ブッダは、 「 自ら努めて 悟りを開け。 わたしは、ただ教えを説くだけである。
自ら悟りを開いた者が 誰を 師と呼ぼうか 。」、 と語り、
唯我独尊 ( 唯我独存 ) を指導されたようである。
又、 「 わたしは皆の友である。 サンガに来た人は、私を友にできるのである。」、 と 語られた。
ブッダが 孤高の聖者といわれる 理由の一つが ここにある。
亡くなる前にも、 「 わたしは 誰一人私の弟子と思った事もないし、又、サンガの皆は わたしに
たよっていると、思った事もない 。」、 と いう言葉を残されている。
亡くなる時にも、 「 友よ、何か 質問が あれば 今、問いなさい 。」、 と 聞かれ、修行者たちが
沈黙していると、 「 自らを 島 ( よりどころ ) とし、真理を 拠り所としなさい 。」、 と、
( 自帰依、法帰依 ) を 告げられている。
しかし中には、ブッダに対する思慕の念が強い修行者もいた。
その修行者は僻地に布教に行かされた。
その人は、そこで病気を患った時、使いを出してブッダを呼んだ。
そして、 「 私は、あなたの そばにいて、あなたを見る事が 楽しみであったのに、あなたは、
こんな辺鄙な所に、私を行かせてしまいました 。」、 と、うらみごとを言うと、
ブッダは、「 それが、あなたの修行のさまたげに なると思ったから、わたしは そうしたのですよ 。」
と、やさしく いましめられたという。 )
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