・
ヘルマン ・ べック 「 仏教 」 より、ー ( 1 )
まことに、あらゆる生きものに対する 愛情と 友情こそは、仏教において、
あらゆる 不思議な 偉力の中で、最も 強力なものである。
ブッダという、これほど強い感化力が ひとりの人物から あらわれ出る事は めずらしい。
ブッダの布教は 時代や場所の制限を超え、ひとつの 世界大宗教ができた。
そして最近では、ブッダの思想の影響は 西洋にもおよんでいる。
ブッダは、どこまでも 自己をむなしくして、ただ 他の人々を 智の光明に導き、智によって 祝福と
平安とに導き、心霊 ( 心、精神 ) を 低劣な領域に ひきずり込むようなものから、まったく
解脱 ( 解放 ) させるように 導く事に努めたのであって、その為に、物質的、個人的 関心を超えた
精神的な 目標のある事を 人々に教えたが、あらゆる俗世間を 超越していた ブッダの心情も、
生きとし生けるものに対する 慈しみと 哀れみに満ちていたのである。
私たちの目に映る ブッダの説教の偉大さ、すなわち、歴史の展開のうちで、ここに始めて人類思想が
あらわれ出た事、ただの民族宗教ではない宗教を ここに初めて迎えた事、
この事態こそ、なぜ 仏教が インドに存続する事ができなかったか、という訳を 説明するものである。
仏教は、その故国を出て、アジアの 諸民族のもとで 本来の使命をはたした。
野蛮の状態にあった諸民族は、生きとし生けるものに対する哀れみを説く ブッダの教えによって、
柔和な 礼節をおぼえ、精神生活が 向上した。
ブッダの教義のような 世界観に比べると、どんな教説でも
おそらく 偏狭で 固陋と思わない訳にはいくまい。
仏教は、西洋で言うような 無神論でもなく、又、ただの 哲学的合理主義でもない。
仏教は、その本質において 哲学とは全く異なったものであって、
近代の唯物論とは 全く関係のないものである。
ブッダは キリストに先立つ時代に生きていて、まさしく 自分の教えのみを説いた。
しかし、どの教理的キリスト教に比べても、認識と道とを、きわめて重要なものとしている点で、
仏教の方が すぐれているという事実に注目し、これを真剣に考えなければなるまい。
仏教の 中心にあるものは 教理である。 苦しみと、解脱に至る認識への道とについての 教理である。
仏教の教理が アジア全体の精神発展に あれほど大きな力を与え、世界宗教となる事ができたと
いうのも、ただひとえに ブッダが それを説いたからであり、
ブッダの すぐれた人格の力によるものである。
それまで 狭い範囲の、特殊団体の 知識の宝庫としていた 「 真理 」 を、
ブッダと その弟子たちが、階級的、民族的な 全ての制限を超えて、
あらゆる 人々の為に、世界に提供した、という点に 仏教の 特色がある。
ヒーナヤーナ ( 小乗仏教 ) に 従うものは、ただ 自分ひとりが 聖者になる為に努力し、自分だけの
「 解脱 」 を 事とするものであるが、マハーヤーナ ( 大乗仏教 ) の方では、ブッダにならって、
もっと高い理想を 実現しなければならない。
それは 世界全体の苦しみを 自分の身に引き受けて、生きとし生けるものを完成させ、
解脱させようと言う誓願である。
なぜかと言うと、ブッダも 又自分ひとりの為に 解脱の道を 見い出したのみでは満足できず、
ためらいながらも、ついに、この智慧を世に広め、この使命を 実現する為に
その生涯を ささげる決心を固めたからである。
すなわち、世界と、生きとし生けるものの 至福の為に活動するという思想は、
マハーヤーナ ( 大乗仏教 ) の中心思想であるが、この思想は、古いパーリ聖典に
しばしば現れている 決まり文句にも、すでに はっきりと書いてある。
聖典に述べられている ブッダの伝記、ブッダの生涯は、今でも 私たちに強く働きかける力を
持っている。 この物語は 世界文学の中で、もっとも美しく、最も 深みある作品のひとつであって、
人間的、詩的に、人を感動させる事が多い事は 言うまでもないが、さらに 又、外界の出来事という
姿を借りて、ブッダの 教理の真髄、すなわち 仏教の 最も奥底の本質を示して、堂々と私たちの理解と
感情とに直接訴えている。
ブッダの本性を 一口で言うならば、気品をそなえた 柔和と 慈愛であり、
この たぐいなき人物の 最も 著しい特質をなしている。
この 柔和を 芸術的に表現して 人を感動させるものは、日本の 鎌倉の大仏に見られる 顔つきである。
その仏像は、粗暴な、怒った、不親切な 言葉などが、この人の唇から漏れた事は 決してない事を、
われわれに 告げようとしているように見える。
ブッダは 実に、あらゆる俗世間の 関心事や、あらゆる 感覚世界や、あらゆる低級な 人間的な営みを、
まったく超越して、ひたすら霊的 ( 精神的 ) なものにおいて生活していた人である、
と 見なければならない。
この見地から見ても、同時代の人々が ブッダを鬼神と見ていた理由がよくわかるのである。
「 勤勉努力せよ。」 と 言う言葉にも、ある意味では、仏教の精髄が 含まれている と言って
さしつかえない。 きわめて簡素ではあるが、この言葉は 仏教の重要な思想をあらわす。
すなわち、弟子たちにとって重要な事は、抽象的な 概念を獲得する事ではなくて、むしろ、
内面的な活動に 努力し、絶えず 自己を訓練して 霊的完成を目標とすべきである、と言うのである。
言葉の偉力のうえに、それにもまして、もうひとつ別の偉力、つまり、沈黙の偉力が加わっている。
そして、この沈黙の意義を正しく把握する事は、仏教全体を理解する為にきわめて重要である。
沈黙は 貴重で、高尚な事である とブッダは言う。 それが 一種の積極的な意義を 持っている。
ブッダは ただ、内面的変化を 起こさせる事を目指す。 さもない場合には、まず 相手の心霊の中に
実行力のある決心を起こさせて 精神的努力の道に進ませ、それから 内面的変化となる。
それによって、本当の観照的な智慧を獲得し、
さらに又 それを超えて、最高の 霊的目標に到達する事が できるように してやるのである。
ブッダが 見い出した 智は、こんにち、「 知識 」 とか、「 認識 」とか 言う名で理解されている
あらゆるものとは、全く 質の異なるものである事なのである。
ブッダが その教義を説いたのは、ひとつの学派の賛成者を かり集める為ではなくて、
霊界から授けられた 超験的な 義務であると信じた ひとつの使命を 人類の為にはたす為であった。
ブッダの意図は、このように 苦しみに満ちた密林から 人の魂を救済する事であり、
その為の道は、全ての 質問事項の前提となっている 思考を断ち、
その代わりに、観照と 洞察と、高次の意識に 至らしめる道である。
粗野な 肉体と結び付いている自己が、最も低級な自己とされている。
それぞれの段階は すぐ上の段階の中で 克服され、そして 無として現れる。
すなわち、あらゆる認識は 仏教の考え方によれば 相対的であり、
一定の 意識段階にとってのみしか 存在しない。
ある段階に存する矛盾は すぐ上の段階において 消滅する。
ブッダは、与えられたその意識形式を、どのようにして超える事ができるか、
という その実践、その道を教える。
( 岩波文庫 「 ベック 仏教 上 下 」 より )
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ヘルマン ・ べック 「 仏教 」 より、ー ( 1 )
まことに、あらゆる生きものに対する 愛情と 友情こそは、仏教において、
あらゆる 不思議な 偉力の中で、最も 強力なものである。
ブッダという、これほど強い感化力が ひとりの人物から あらわれ出る事は めずらしい。
ブッダの布教は 時代や場所の制限を超え、ひとつの 世界大宗教ができた。
そして最近では、ブッダの思想の影響は 西洋にもおよんでいる。
ブッダは、どこまでも 自己をむなしくして、ただ 他の人々を 智の光明に導き、智によって 祝福と
平安とに導き、心霊 ( 心、精神 ) を 低劣な領域に ひきずり込むようなものから、まったく
解脱 ( 解放 ) させるように 導く事に努めたのであって、その為に、物質的、個人的 関心を超えた
精神的な 目標のある事を 人々に教えたが、あらゆる俗世間を 超越していた ブッダの心情も、
生きとし生けるものに対する 慈しみと 哀れみに満ちていたのである。
私たちの目に映る ブッダの説教の偉大さ、すなわち、歴史の展開のうちで、ここに始めて人類思想が
あらわれ出た事、ただの民族宗教ではない宗教を ここに初めて迎えた事、
この事態こそ、なぜ 仏教が インドに存続する事ができなかったか、という訳を 説明するものである。
仏教は、その故国を出て、アジアの 諸民族のもとで 本来の使命をはたした。
野蛮の状態にあった諸民族は、生きとし生けるものに対する哀れみを説く ブッダの教えによって、
柔和な 礼節をおぼえ、精神生活が 向上した。
ブッダの教義のような 世界観に比べると、どんな教説でも
おそらく 偏狭で 固陋と思わない訳にはいくまい。
仏教は、西洋で言うような 無神論でもなく、又、ただの 哲学的合理主義でもない。
仏教は、その本質において 哲学とは全く異なったものであって、
近代の唯物論とは 全く関係のないものである。
ブッダは キリストに先立つ時代に生きていて、まさしく 自分の教えのみを説いた。
しかし、どの教理的キリスト教に比べても、認識と道とを、きわめて重要なものとしている点で、
仏教の方が すぐれているという事実に注目し、これを真剣に考えなければなるまい。
仏教の 中心にあるものは 教理である。 苦しみと、解脱に至る認識への道とについての 教理である。
仏教の教理が アジア全体の精神発展に あれほど大きな力を与え、世界宗教となる事ができたと
いうのも、ただひとえに ブッダが それを説いたからであり、
ブッダの すぐれた人格の力によるものである。
それまで 狭い範囲の、特殊団体の 知識の宝庫としていた 「 真理 」 を、
ブッダと その弟子たちが、階級的、民族的な 全ての制限を超えて、
あらゆる 人々の為に、世界に提供した、という点に 仏教の 特色がある。
ヒーナヤーナ ( 小乗仏教 ) に 従うものは、ただ 自分ひとりが 聖者になる為に努力し、自分だけの
「 解脱 」 を 事とするものであるが、マハーヤーナ ( 大乗仏教 ) の方では、ブッダにならって、
もっと高い理想を 実現しなければならない。
それは 世界全体の苦しみを 自分の身に引き受けて、生きとし生けるものを完成させ、
解脱させようと言う誓願である。
なぜかと言うと、ブッダも 又自分ひとりの為に 解脱の道を 見い出したのみでは満足できず、
ためらいながらも、ついに、この智慧を世に広め、この使命を 実現する為に
その生涯を ささげる決心を固めたからである。
すなわち、世界と、生きとし生けるものの 至福の為に活動するという思想は、
マハーヤーナ ( 大乗仏教 ) の中心思想であるが、この思想は、古いパーリ聖典に
しばしば現れている 決まり文句にも、すでに はっきりと書いてある。
聖典に述べられている ブッダの伝記、ブッダの生涯は、今でも 私たちに強く働きかける力を
持っている。 この物語は 世界文学の中で、もっとも美しく、最も 深みある作品のひとつであって、
人間的、詩的に、人を感動させる事が多い事は 言うまでもないが、さらに 又、外界の出来事という
姿を借りて、ブッダの 教理の真髄、すなわち 仏教の 最も奥底の本質を示して、堂々と私たちの理解と
感情とに直接訴えている。
ブッダの本性を 一口で言うならば、気品をそなえた 柔和と 慈愛であり、
この たぐいなき人物の 最も 著しい特質をなしている。
この 柔和を 芸術的に表現して 人を感動させるものは、日本の 鎌倉の大仏に見られる 顔つきである。
その仏像は、粗暴な、怒った、不親切な 言葉などが、この人の唇から漏れた事は 決してない事を、
われわれに 告げようとしているように見える。
ブッダは 実に、あらゆる俗世間の 関心事や、あらゆる 感覚世界や、あらゆる低級な 人間的な営みを、
まったく超越して、ひたすら霊的 ( 精神的 ) なものにおいて生活していた人である、
と 見なければならない。
この見地から見ても、同時代の人々が ブッダを鬼神と見ていた理由がよくわかるのである。
「 勤勉努力せよ。」 と 言う言葉にも、ある意味では、仏教の精髄が 含まれている と言って
さしつかえない。 きわめて簡素ではあるが、この言葉は 仏教の重要な思想をあらわす。
すなわち、弟子たちにとって重要な事は、抽象的な 概念を獲得する事ではなくて、むしろ、
内面的な活動に 努力し、絶えず 自己を訓練して 霊的完成を目標とすべきである、と言うのである。
言葉の偉力のうえに、それにもまして、もうひとつ別の偉力、つまり、沈黙の偉力が加わっている。
そして、この沈黙の意義を正しく把握する事は、仏教全体を理解する為にきわめて重要である。
沈黙は 貴重で、高尚な事である とブッダは言う。 それが 一種の積極的な意義を 持っている。
ブッダは ただ、内面的変化を 起こさせる事を目指す。 さもない場合には、まず 相手の心霊の中に
実行力のある決心を起こさせて 精神的努力の道に進ませ、それから 内面的変化となる。
それによって、本当の観照的な智慧を獲得し、
さらに又 それを超えて、最高の 霊的目標に到達する事が できるように してやるのである。
ブッダが 見い出した 智は、こんにち、「 知識 」 とか、「 認識 」とか 言う名で理解されている
あらゆるものとは、全く 質の異なるものである事なのである。
ブッダが その教義を説いたのは、ひとつの学派の賛成者を かり集める為ではなくて、
霊界から授けられた 超験的な 義務であると信じた ひとつの使命を 人類の為にはたす為であった。
ブッダの意図は、このように 苦しみに満ちた密林から 人の魂を救済する事であり、
その為の道は、全ての 質問事項の前提となっている 思考を断ち、
その代わりに、観照と 洞察と、高次の意識に 至らしめる道である。
粗野な 肉体と結び付いている自己が、最も低級な自己とされている。
それぞれの段階は すぐ上の段階の中で 克服され、そして 無として現れる。
すなわち、あらゆる認識は 仏教の考え方によれば 相対的であり、
一定の 意識段階にとってのみしか 存在しない。
ある段階に存する矛盾は すぐ上の段階において 消滅する。
ブッダは、与えられたその意識形式を、どのようにして超える事ができるか、
という その実践、その道を教える。
( 岩波文庫 「 ベック 仏教 上 下 」 より )
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