テーラ ガーター ( 仏弟子たちの言葉 ) ― ( 1 )
( 岩波文庫 「 仏弟子の 告白 」 より )
水道を作る人は 水を導き、 矢を作る人は 力をこめて 矢を矯 ( た ー 真っ直ぐにする ) め、
大工は 材木を矯め、 慎み深い人々は 自己をととのえる。
矢作りが矢を矯めるように、自己を直立せしめて、心を真っ直ぐにして、無明を断ち切れ。
ハーリタよ。
あたかも 母が愛しき ひとり子に対して 善き婦人であるように、
至る所で 一切の 生きとし 生けるものに対して、善き人であれかし。
真理を見る者は、真理を見る 他人を見、又、真理を 見ない人をも見る。
しかし、真理を見ない者は、真理を見る 他人をも見ないし、又、真理を見ない人をも 見ない。
諸々の欲望は 苦しみである。
エーラカよ。 諸々の欲望は 安楽ではない。
エーラカよ。 諸々の欲望を 求める人は、実は 苦しみを求めるのである。
エーラカよ。 諸々の欲望を 求めない人 ―― かれは 苦しみを求めないのである。
いかなる 常住なる生存も 存在しない。 又、諸々の 形成されたものも、常住ではない。
個人存在を構成する 五つの要素は、次から 次へと、生じては 滅びる。
これは 危ない患いである、 と知って、私は 迷いの生存を 求める事がなかった。
一切の 愛欲から離れて、私は 諸々の汚れを 消滅するに至った。
聞こうと 欲するなら 聞いた事 ( 学識 ) を増大する。 聞いた事は、智慧を 増大する。
智慧によって 道理を知る。 道理を知ったならば、楽しみをもたらす。
人が 善、又は、悪の行いを なすならば、かれは 自分の行った 一つ一つの業 (行為) の相続者となる。
人々は 人々に束縛され、 人々は 人々に依存する。 人々は 人々に害われ、 人々は 人々を害う。
誰が 人々を必要とするのであろうか。
あるいは誰が、人々の生んだ人々を 必要とするのであろうか。
人は、多くの人々を 害 ( そこな ) って、 しかも その人々を 捨てて行くのであろう。
他人を 排斥するな。 他人と 対立するな。 彼岸に達した人を 罵るな。
又、声を荒々しくするな。 集会において名声を失った人の事を語るな。
昂奮する事なく、慎んで語り、よく戒めを守る者であれ。
心 喜べる人には、温良なる すがたがある。 それを思え。
善き人が、よき ブッダの教えにおいて 進み行くのは、やさしい。
いとも 清浄純白であり、微妙で、見難いところの、不死なる かの 命の泉である 最上の境地に触れよ。
寒さよりも、暑さよりも、草よりも以上のものとは 考えないで、
人間として 為すべき事を、実行しているならば、その人は 幸せから離れる事はない。
慈しみ ( いつくしみ ) の心をもって、あらゆる生きものを いたわる人、
―― そのような人は、多くの福徳を 生じる。
修行者が 一人でおれば、梵天 ( 最高神 ) のごとくである。
二人でおれば、二人の神の ごとくである。 三人でおれば、村の ごとくである。
それ以上おれば、雑踏の ごとくである。
大海の上では、人は、小さな木片に 乗っているならば 沈むように、
怠け者と 交わっているならば、立派に 生きている人でも 沈む。
それ故に、努力もしない 怠け者を 避けよ。
しかしながら、他者達は、( 私たちが 滅びゆく 存在である事を ) 通常 識知していない。
ここに私たちは、( 自らが 滅び行く存在である事を 識知して、自らを ) 制するのだ。
しかして そこに 識知するなら、それ故に、諸々の 確執 ( あらそい ) は 静まる。
しかし、( 私たちが 滅び行く存在である事を ) 識知せずにいる時、彼等は、不死であるかのように
振舞う。
しかしながら、この法 ( ダンマ・真理 ) を 識知する者たちは、病いある者たちの中にいながら、
病い無き者たちである。
うるわしく、あでやかに 咲く花でも、香りの無いものが あるように、善く説かれた 言葉でも、
それを 実行しない人には、実りがない。 しかしながら、それを 実行する人には、実りがある。
―― 心よ。
私は 正しく気をつける事によって、そなたを 縛りつけよう。
私は、自らを制して、そなたを 調練しよう。
そなたは 私の 精励努力という 重荷に おさえつけられて、ここから 遠くに行く事は ないであろう。
ほしいままに 振舞う人には、愛執が 蔓草のように はびこる。
林の中で 猿が 果実を探し求めるように、かれは この世から かの世へと、あちこちに さまよう。
怠りは 塵垢である。 塵垢は 怠りに従って 生ずる。
努めはげむ事によって、又、明知によって、自分にささった矢 ( とらわれ ー 苦しみ ) を 抜け。
自分が すぐれているという 慢心も、他人が 劣っていると軽蔑する慢心も、捨てられ、
すっかり 根だやしにされた。 「 我は これこれの者である 」、 という慢心も 断絶された。
あらゆる種類の 慢心が 滅ぼされた。
他人が 怒ったのを知って、気をつけて、自ら 静かにしているならば、
その人は、自分と 他人と 両者の為になる事を 行っているのである。
足で 蛇の頭を 踏まないようにするのと 同様に、よく気をつけて、諸々の欲望を 回避する人は、
この世で この執著を 乗り越える。
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