ウダーナ ヴァルガ ( 3 )
怒りを 捨てよ。 慢心を 除き去れ。 いかなる束縛をも 超越せよ。
名称 ( 自我 ) と 形態 ( 肉体 ) とに 執著せず、無一物と なった者は、 苦悩に 追われる事がない。
力のある人が、他人から 謗 ( そし ) られても 忍ぶならば、それを 最上の忍耐と 呼ぶ。
弱い人に 対しては、常に 同情して 忍んでやらねばならぬ。
真実を語れ。 怒るな。 乏しき中からでも 自ら与えよ。
これら 三つの事を 具現したならば、死後には 天の 神々のもとに 至り得るであろう。
怒らない事によって 怒りに打ち勝て。 善い事によって 悪い事に打ち勝て。
分かちあう事によって 物惜しみに打ち勝て。 真実によって 虚言に打ち勝て。
過去に さとりを開いた 仏たち、又、未来に さとりを開く 仏 ( 聖者 ) たち、
又、多くの人々の 憂いを除く 現在の世の仏、
―― 正しい教えの師である これら 全ての人々は、過去にも住したし、現在住し、
又、未来に住するであろう。 これが 諸仏のあいだの 決まりである。
耳で多くの事を聞き、目で多くの事を見る。
思慮ある人は見た事 聞いた事を すべて信じてはならない。
戦場において 百万人の敵に勝つとも、 ただ 一つの 自己に克つ者こそ、実に 不敗の 勝利者である。
この世では 自己こそ 自分の あるじである。 他人が どうして 自分のあるじであろうか ?
賢者は、自分の身を よくととのえて、自分の目的を 達成する。
素行が 悪く、心が 乱れていて 百年生きるよりは、
常に 清らかで 徳行のある人が 一日生きる方が すぐれている。
もしも 愚者が、「 我は 愚かである 」、 と 知れば、すなわち 賢者である。
愚者でありながら、しかも 自分では 賢者だと思う者こそ、「 愚者 」、 と 呼ばれる。
愚かな者を 見るな。 その言葉を 聞くな。 思慮ある人々と 共に住む ( 付き合う ) のは楽しい。
―― 親族と 出会うような ものである。
亀が 諸々の肢体を 自分の甲の中に 引っ込めるように、自分の 粗雑な思考を おさめとり、
何ものにも 依存する事なく、他人を悩ます事なく、束縛の覆いをときほぐして、
なんびとをも謗 ( そし ) るな。
鹿の帰する所は 原野の奥であり、 鳥の帰する所は 虚空であり、
分別ある 人々の帰する所は、ことわり ( 理法 ) であり、 諸々の 真人の帰する所は 安らぎである。
見られた事は 見られただけのものであると 知り、 聞かれた事は 聞かれただけのものであると 知り、
考えられた事は 又 同様に 考えられただけのものであると 知り、
又、識別された事は 識別されただけのものであると 知ったならば、苦しみが 終滅すると 説かれる。
生じたもの、有ったもの、起こったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、
老いと 死の 集積、虚妄なるもので 壊れるもの、食物の原因から 生じたもの、―― ( 全ての物体 )
―― それは 喜ぶに足りない。
さとりの 究極に達し、恐れる事なく、疑いがなく、後悔の わずらいの無い人は、
生存の矢を 断ち切った人である。 これが、かれの 最後の 身体である。
教えを説いて 与える事は 全ての贈与にまさり、 教えを味わう楽しみは 全ての楽しみにまさり、
忍耐の力は 全ての力にまさり、 妄執を 全て滅ぼす事は 全ての快楽に 打ち勝つ。
他人の過失を 探し求め、常に 他人を見下して 思う人は、卑しい性質が 増大する。
かれは 実に 真理を見る事から 遠く 隔たっている。
恥を 知り、常に 清きを求め、よく仕事に 専念していて、慎み深く、真理を見て、
清く暮らす人は、生活し難い。
恥 を知らず、鳥の首魁のように がやがや叫び、厚かましく、図々しい人は、生活し易い。
この世では、心が汚れたままに 生きて行く。
人々は自我観念にたより、又他人という観念にとらわれている。
このことわりを或る人々は知らない。
実に かれはそれを、身にささった矢であるとは 見なさない。
ところが これを、人々が執著し、こだわっている矢であると あらかじめ見た人は、
「 我が為す 。」、 という観念に 害される事もないし、
「 他人が為す 。」、 という観念に 害される事も ないであろう。
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