永井雄一郎 | 智久がゆく

智久がゆく

竜馬がゆくのパクリではないです。我が道を走り抜いちゃう。「事を成す」人間になりたいです。

浦和レッズで過ごした12年。永井雄一郎は、いつも悩みの淵にいた。彼のサッカー人生を語る際の枕ことばにもなったプロデビュー戦。横浜M(現横浜FM)の日本代表DFコンビ、井原正巳と小村徳男をドリブルで抜き去った戦慄は周囲の者だけでなく、本人も負荷を背負った。稀有な能力を有する故、その期待感はいつしかプレッシャーへと変わっていった。

 独特のプレースタイルはかつてレッズを率いた歴代の指揮官たちの判断を狂わせた。最大の武器を生かすポジションを模索した結果、永井は本職のFWを任されず、トップ下やウインガーの役割を課せられることが多くなっていった。

 スマートな容姿もプロサッカー選手としてはマイナスに作用した。ドリブルを仕掛けて相手にボールを奪われると決まって天を仰ぎ、サポーターからは「気力を尽くせ!」と罵声を浴びた。

 チーム内ではライバルの群雄割拠の荒波にもさらされた。万年下位からの脱却、J2落ちを経験したことも遠因となり、クラブは常勝を掲げて精力的な戦力補強を敢行した。

 2003年シーズン、永井は「バンディエラ」福田正博から譲り受けた背番号9を背に勇躍エースの自覚を備えたが、その立場は意欲と反比例するように暴落した。エメルソン、ワントンらの強力外国籍FWだけでなく、田中達也というニュースターの突き上げにも遭い、その存在は希薄になっていった。永井は熟慮する人物である。ここ数年、彼が満足し、成長を止めるそぶりを見たことがない。その多大で理想高き向上心が、揺らぐことなき決断へと帰結した。

 浦和からの別れ。鮮烈な記憶を残し、永井は新天地へと旅立っていった。


聖地で「風を起こす」選手は幾人かいた。クラブの象徴だった福田は数多くのゴールを決め、サポーターを熱狂させた。また「エンターテイナー」岡野雅行は、その人間離れした驚愕のプレーで周囲の度肝を抜いた。そして永井も、サポーターを歓喜の渦に巻き込み、サッカーの魅力を存分に示す希代の選手だった。

 04年8月21日。埼玉スタジアムでの東京V戦。前半に2点を決めていた永井が後半、クラブ史上に残るスーパーゴールを炸裂させた。GK都築龍太のフィードを自陣左サイドで受けて猛然とドリブルを開始。徐々に中央へ切れ込み相手を一人、二人、三人と抜き去っていく。牛若丸のごとき華麗なステップワークにスタジアムのボルテージが高まり、総立ちになったサポーターが拳を振り上げて彼の背中を押した。GKをもかわしてフィニッシュした瞬間、聖地には一陣の風が走った。それは彼が魅せた軌跡と、サポーターが発した「ナガイ!」という叫びにも似た称賛が生んだ産物だった。


一方で、04年シーズンの永井は不遇を囲っていた時期でもあった。時の指揮官、ギド・ブッフバルトは彼をFWではなく右ウインガーとして起用。最前線はエメルソンと田中の2トップがファーストチョイスで、永井はチャンスメーカーの役割が主な任務だった。

 当時、永井はその処遇に不本意ながらも、期待に応えようと躍起となっていた。当時のトッププレーヤーであるライアン・ギグス(マンチェスター・ユナイテッド/ウェールズ代表)のビデオを見て、サイドで生きることの存在意義を模索したりもした。またオフ期間中にはトレーニングジムに通って自主トレーニングに専念。鶏のささ身を中心とした節制食事メニューで体重を減らし、壮絶な筋力トレーニングで筋肉の鎧をまとおうとした。それはひとえに、指揮官へ自身の実力を認めさせようとする意地から来るものだった。
「ギドの時代は、だんだん立場が危うくなっていくのがヒシヒシと感じられた。練習の紅白戦では大抵控え組に入って、対戦相手を想定したフォーメーションで主力組の仮想相手をやらされた。そんな境遇では、本番の試合で急に起用されてもコンビネーションが確立されるわけがない。すごく思い悩んだし、この時期から浦和からの移籍を考え始めた」


失意の永井に救いの手を差し伸べたのはホルガー・オジェックだった。

 07年に1996年シーズン以来のカムバックを果たした厳格なドイツ人指揮官は、永井をFWに抜てきした。役割はエース・ワシントンとの共存。そこで永井は、本来彼が実践したかったコンビネーションサッカーで新たな一面を見せる。

 「2007年シーズン前のオフは移籍を考えていたけど、監督が代わるということで踏みとどまった。オジェックの下で、もう一度チャレンジしようという気持ちが芽生えたんです」07年シーズンの成績はリーグ戦31試合6得点。ACL11試合3得点。カップ戦(ナビスコカップ、天皇杯)は3試合1得点だった。数字上は凡庸だが、そのゴールは値千金のものばかり。ライバル・G大阪を失意の底に突き落としたリーグ第20節のゴール、ACL決勝第2戦セパハン戦でクラブをアジアナンバーワンに導く先制点。ACL最優秀選手にも輝き、存在を内外に知らしめた。


永井がオジェックの庇ひご護の下、覚醒した要因は本人の言葉通り、連携を重視する姿勢にあった。献身的なフリーランニングと犠牲的精神で味方を生かし、千載一遇の場面でゴールを射抜く。ストロングポイントであるドリブルを自重し、あくまでもグループを尊重する。今まで覆い隠されてきた永井のサッカー哲学が明確に表現されたシーズンだった。「僕が無理をして局面を打開しなくてもいいんじゃないかって思ったんです。僕がボールを受けた時点で周りにはロビー(ポンテ)、それにワシさん(ワシントン)たちがいる。彼らに簡単にボールを預けて、僕はもう一歩先、ゴールに近い場所でボールをもらおうとする意識が強くなった。今まではボールを受けたら何かしなくてはいけないと思っていたんです。でもドリブルばかりしていると疲れちゃうでしょ(笑)。そうするとフィニッシュの場面で力を発揮できない。今は格好良くプレーしようとは思わない。FWとして何をすべきか。どんな形でもいいからゴールネットを揺らす努力をする。でも、その揺らす役目は僕じゃなくてもいい。ほかの仲間にそのおぜん立てをするのもFWの大事な役割。そう思ったんです」


芽生えた自信。生きる道。指標を見いだした永井に迷いはなかったはずだった。しかし08年シーズン。クラブはオジェック監督を開幕から2試合を消化した時点で解任し、ヘッドコーチを務めていたゲルト・エンゲルスを新監督に任命した。そして歯車は狂っていく。 エンゲルス監督は主力選手の意思を尊重し、彼らに最良の場を提供する采配を執った。それは時に好結果を生んだが、副産物として個人に依存する比重が顕著になった。特定個人のパフォーマンスによって戦術が変わり、結果が左右されることになったのだ。言うなればブッフバルト体制への回帰。永井はその渦にのまれ、ジレンマを募らせていった。 永井の憤りは現場の最高責任者である監督だけに向けられたものではない。12年間の長きにわたって心の奥に内包させてきたクラブへの思いもあった。

「実際、ここ何年間か、レッズのサッカーが何なのか、はっきりとしたものは僕もないと感じている。だから『自分たちのサッカーができれば』というのは、一つの願望でもある。ただクラブ、チームの色っていうのは僕ら選手だけじゃなく、監督、クラブフロントなどが一丸となって作り上げなきゃいけないものだと思うんです。レッズはギド(ブッフバルト)がチームを指揮した時代から個人能力を全面に押し出したサッカーを特長としてきた。それで結果も残しましたしね。ただ今は、その傾向からもう一段階ステップアップする時期にきているのかなと感じます。結局今のレッズのサッカーは、選手の陣容が代わることでガラッと内容が変わる。例えば去年まではワシ(ワシントン)がいる場合と彼が不在で僕が1トップを務める場合とではサッカースタイルがまったく変わるわけです。またエメルソンがエースだった時代も違いましたよね。つまり、レッズのサッカーと言ってもひとくくりにはできない。今季でいえば、闘莉王が前線に上がっただけでスタイルが変わる。そこをチームとしてどう認識しているのかが大事だと思うんです」


08年の浦和はチーム戦術の不整備が仇となり、相手に研究されて手詰まりに陥った。それに加え主力選手のけが、疲労などによってパフォーマンスが低下すると、成績は下降の一途をたどった。02年シーズン以来の無冠に沈んだチームはエンゲルス監督を解任し、新たにフォルカー・フィンケ氏を新監督に任命する。ドイツ・ブンデスリーガ2部のフライブルクを16年もの長期にわたり指揮し、「コンビネーションサッカー」というフィロソフィーを掲げ、チーム戦術を重んじるタイプの指揮官として名をはせてきた人物である。

 永井の提言は、クラブに何らかの作用をもたらしたと信じたい。それが、彼が残した遺産として語り継がれるのだから。
 流星のように駆け抜けた貴公子。09年シーズンから、彼は赤ではなく、オレンジのユニホームに袖を通す。今は、彼の選択を尊重し、その行く末を見守るしかすべはない。それでも……。 聡明な指揮官が率いる新生・レッズで、彼の勇姿を見たかった。