古代国家吉備の謎に迫る(その1) | 散歩道

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かもかもさんのブログ より

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鬼ノ城から眺めた吉備路の朝

まえがき1(おことわり)

このページはかもかもの「私的歴史観」です。ご了承下さい。

かもかもの母は、古くから吉備中心部(鬼ノ城の南西)に暮らす家系の出身です。母の里は今でものどかな田舎で、近くの丘には無数の古墳があり、夏休みなど長期滞在した時にはいくつもの石室が見え隠れする松林を走り回って遊んだものです。

古代山城「鬼ノ城」が山火事の後偶然発見されたのは昭和46年、民間の熱心な研究家によって次第に世に知られるようになり、本格的な調査が行われるようになったのは昭和53年からと、新たな発見のように報道されていますが、母の出身地周辺では「山の上に大きな城があった」と昔から言い伝えられていました。母から聞いたこの話は、かもかもが2000年7月に「鬼ノ城1」をアップロードするきっかけとなりました。



岡山県倉敷市北部から総社市南部にかけて、古代吉備国時代の巨大古墳や珍しい古墳がたくさんあります。しかしそれらは、これといった保護を受けることもなく荒れ放題です。



楯築遺跡、頂上部

「鬼ノ城」の伝説にも登場し、高台の上に大小の不思議な岩が円形に並ぶユニークな弥生時代最大級の墳丘墓(古墳時代のモノではないので古墳ではなく墳丘墓というそうです)「楯築遺跡」は宅地造成で破壊され、ストーンサークル(写真)のすぐ下まで住宅が迫っています。住宅地から直接、屏風のようにそそり立つ岩を見上げることが出来るほどです。このあたりは「楯築遺跡」を中心に沢山の古墳が発見されています。早い話、住宅地は「貴重な遺跡群」の中に造成されたようです。
おまけに、遺跡内、ストーンサークルのすぐ南には、住宅地に供給する「給水塔」まで建設されています。にわかには信じ難い話です。(参照:楯築遺跡周辺・案内図)

鬼ノ城も放っておかれたら今頃は哀れモトクロス場になっていたところでした。実際、モトクロス場を建設するための道路や資材置き場が鬼ノ城内に設けられています。鬼城山は急峻な斜面の割に山頂部は比較的平坦です。そこに目を付けられたのでしょう。

現在も発掘は急ピッチで行われており、周囲3キロメートルの石垣の内側からは建物の礎石や水門などが相次いで発掘されています。城内外の通路には丁寧に石(平に割れ易いアプライト質花崗岩。流紋岩という説もある)が敷き詰められ舗装されていたことも分かってきました。

平坦な頂上は昔、城の建設のため人の手が加えられたためかもしれません。
数年後には城の全貌も明らかになるでしょう。

鬼ノ城案内版はこちら


まえがき2

歴史を考える上で、考慮しなければならない事に「当時の海岸線」があります。
海岸線は、時代によって、大きく変動しています。

原因の一つは気候変動です。

極端な例ですが、今から1万2千年前まで繰り返し訪れた「氷河期」には海面は今より百数十メートル低いところにありました。現在、大陸周辺の水深200メートル付近に広がっている「大陸棚」と呼ばれる平らな地形は、長く続いた氷河期時代に形成された当時の「平野」および、波が洗う「海食台」の跡です。氷河期は氷に覆われた陸地も多い一方、海岸近くには平地も大きく広がっていました。
想像してみてください。水深200メートルくらいまでの膨大な量の海水が、氷河期には雪原や氷河として陸地に白く分厚く乗っていたわけです。地球上高緯度地域のかなりの部分が現在の「南極」状態でした。人間が生活できた場所は自ずから低緯度の海岸周辺などに限られてきます。

参考ですが、100メートル高度が低くなると約0.6度気温が高くなります。寒冷な氷河期に人類はどうやって生き延びることができたのだろうと考えてしまいますが、現在より高度が160メートル程も低かった当時の海岸付近は赤道を跨ぐマレー・スマトラ・ジャワをつなぐ地域に出現していたスンダランドばかりではなく、住みやすい環境も案外多かったかもしれません。自然の大貯水池・氷河からの雪解け水で、水に不自由する事も無かったでしょう。
氷河期に人類がどんな生活していたかをはっきりと示すまともな痕跡がなかなか発見されないのは、人間が暮らしを営むのに最も適していた当時の平野が、現在では海底深く沈んでしまった事も原因の一つでしょう。長期に渡って気候が安定し、水の心配も無く案外暮らしやすそうだった氷河期に文明の花が開いていたとしても今は海底の砂や珊瑚礁に埋もれているわけで、もう探しようがありません。

さて一方、今から8000年前(紀元前6000年)には、一転して非常に温暖な「海進期」(縄文海進)となりました。8000年前にノルウェー沖でメタンハイドレート層の崩壊によるメタン大量噴出があったことが知られていますが、この頃起こった異常とも言える温暖化の原因のひとつかもしれません。メタンの温室効果は二酸化炭素の20倍ですから。海面は現在よりかなり高くなり海は内陸部まで入り込みました。

氷河期から温暖な海進期に至る気候の激変は海面の急上昇という現象を伴いました。
大陸に分厚く積もっていた氷床が解けて一時内陸部に巨大な湖を形成し、その後ダムが決壊するように想像を超えた大量の冷たい水と氷が一気に海に向かって流れ下るという洪水現象が、世界のあちこちで起こりました。
大量の水と氷によってえぐられた地形は「バッドランド」と呼ばれ、北アメリカ大陸の北半分を覆っていたローレンタイド氷床が崩壊した痕跡の残るカナダ・アルバータ州では恐竜の化石が発見される場所にもなっています。
突然おそいかかる大洪水と津波を伴う海面の急上昇によって、人類は山の上へ上へとすみかを追われ続けました。世界各地に伝わる「神話」や「創世記」に「洪水伝説」が必ず登場するのは、この時の遠い記憶かもしれません。また大量に海になだれ込む氷混じりの冷たい水は激しい気候の変動をもたらしました(ヤンガードライアス期)。
人類はこの存亡の危機に歴史をリセットせざるを得なかったでしょう。

今ではすっかり内陸になってしまった縄文遺跡「三内丸山」(5500年前~4000年前)ですが、海面の上昇した縄文海進当時は海岸に近い集落でした。
現在は寒冷な東北地方や北海道の少し内陸に大きな縄文遺跡が数多く発見されるのは、気候風土などが当時の日本では最も暮らしやすい所だったからです。縄文海進時には北海道まで亜熱帯から温帯気候でした。(う~~ん、現在もそうなりつつあるのかも……)

その後、気候の寒冷化および海面低下に伴って海岸線は遠のき植生も変化して、生きてゆくための食物を確保するのが難しくなりました。
東北地方の縄文遺跡で年代が新しくなるに従って「土偶」が多く出土するのは、気候の寒冷化によって巨大化した集落を維持するのが非常に苦しくなり、より頻繁な「占術」や「祈祷」を必要としたからだと言われています。

その後、集落はとうとう放棄され、海岸線から遠く寒冷なその地に暮らすものも無く、集落跡は自然に埋没し保存されました。もし寒冷化もなく生活しやすい土地であれば人はずっとそこに住み続け、今では住宅地や工場、田畑の下になっているはずです。

その後も、海岸線は一進一退「海進期(温暖期)」「海退期(寒冷期)」を数百年ごとに繰り返し、現在に至っています。(今は海進一直線かも?)

余談ですが、海岸線の後退は「寒冷化」だけが原因ではありません。
日本近海で巨大地震の原因となっている地殻変動「プレートの沈み込み」があります。
プレートは、海溝部で地球内部に潜り込みますが、その時、多量の海水を一緒に引き込みます。「濡れ雑巾を引っ張り込んでいるようなものだ」と表現する学者もいます。
このように顕著な気候変動が無くても、海は後退し続ける運命にあります。

また、引き込まれた海水は、地下150km付近で変化を起こし、火山活動の原因となります。プレートがおよそ地下150kmに沈み込んだ所に、火山が並び、火山帯を形成しています。
プレートが沈み込む「海溝」のやや外側に、海溝と平行して火山帯があるのは、そういう理由からです。地球儀または世界地図を見て日本周辺を確認してください。北から

「アリューシャン海溝」-「アリューシャン列島」、「千島海溝」-「千島列島」、「日本海溝」-「日本列島」、「小笠原海溝」-「小笠原諸島」、「マリアナ海溝」-「北マリアナ連邦」、「フィリピン海溝」-「フィリピン」等々・・・。

地球って、面白いですね。

おっと、すっかり話が横道にそれてしまいました。



さて、そこで5世紀頃の「古代吉備国中心部」の海岸線を推測してみました。


当時は児島が沖合に横たわる吉備穴海と呼ばれる内海があり、波静かな絶好の航路となっていました。港は「津」と呼ばれていたことを考えると、海はかなり内陸まで入り込んでいたようです。現在鬼ノ城の眼下に広がる平坦な水田は後年の干拓によるものですから、当時はもう少し起伏があったでしょう。尚、とりあえず国土地理院25000分の1の地図、標高10メートルの等高線を参考にしましたが、標高10メートルでは山際まで海が入り込み到底農耕が営めるとは考えられませんので、適当に海岸線を引き直しました。ご了承下さい。

鬼城山から入り江を隔てた対岸の丘には、造山古墳をはじめ、大小無数の古墳が確認されています。当時この一帯は墓所だったと推測されます。その最も東のはずれに、住宅開発によって荒廃が進む「楯築遺跡」があります。楯築遺跡から浅瀬を隔てるようにして当時の港「吉備津」があり、向かいの「吉備中山」に「吉備津神社」があります。当時この入り江には右手から高梁川の分流が蛇行しながら流れ込んでいました。現在では流れを変えています。
入り江の手前、鬼城山の中腹から麓にかけては多数の製鉄所が並ぶ工業地帯でした。 パノラマ写真(クリックすると別ウインドウで開きます)に見える「鬼ノ城ゴルフ倶楽部」を造成したとき、多数のたたら製鉄遺跡が発掘されました。(残念なことに、それらは保存されませんでした)

大変、た~いへん長い前置きとなりましたが、この写真を眺めながら「吉備の国」に伝わる昔話に、耳を傾けていただければ幸いです。


「吉備津神社」と「吉備津彦神社」
2002年6月7日、かもかもは花菖蒲の撮影に「吉備津彦神社」に出かけました。

あれれれ?鳴釜神事の「吉備津神社」のまちがいでは?
いえいえ、この地には「吉備津神社」と「吉備津神社」があります。


吉備津神社

双方の距離は直線で約1キロ、どちらも、鬼ノ城・城主「温羅」との戦いで「吉備津彦命」が陣を構えたと言われる吉備中山のすそ野にあります。


吉備津彦神社

吉備津彦神社は、地図の少し左にはずれます。
有名なのは、長い松並木の参道、曲線の美しい回廊、壮麗な比翼入母屋造りの本殿(国宝)を持つ「吉備津神社」ですが、「吉備津彦神社」も「備前一宮」という地名の由来ともなっている格式の高い立派な神社です。

どちらも主な祭神は「吉備津彦命(キビツヒコノミコト)」です。しかし同じ人を祭った神社が、なぜこんなに近くにあるのでしょう?
二つの神社の間には、昔の国境があり、「吉備津彦神社」は備前の、「吉備津神社」は備中の「吉備津宮(一宮)」と言うことになっています。
しかし、県の境界線を挟んで「太宰府天満宮」と「北野天満宮」がほんの一キロ足らずで隣接しているようなもので、実に奇妙です。 それに、元々備前・備中は「吉備津彦命」の時代には一つの国:吉備国だったんですけど・・。

吉備津神社に伝わる「吉備津神社縁起(温羅伝説)」を、かもかもの「Geographic Gallery」の「鬼ノ城」で紹介しました。しかしその時にはうかつにも、これら二つの神社の謎には思いを巡らせることが出来ませんでした。

「吉備津彦神社」で花菖蒲を撮影した後、かもかもは思い立って、「矢喰宮」に向かいました。


手前は「作山古墳」遠くに「鬼ノ城」が見えます。

吉備国の歴史は何も残されていません。吉備国絶頂期の王墓であったはずの巨大古墳、「造山古墳」「作山古墳」の由来など、今となっては探るすべもありません。
その中にあって、唯一吉備国の歴史書らしき形を残しているのが、「吉備津神社縁起」です。

「吉備津神社縁起(温羅伝説)」をご紹介しましょう。
こちらをクリックして下さい。

地図を参照しながら縁起をご覧下さい。なかなか面白い物語です。

架空の物語と言われている「吉備津神社縁起(温羅伝説)」ですが、「吉備津神社」「吉備津彦神社」をはじめ、「鯉喰神社」「血吸川」「首部」「楯築遺跡」それより何より「鬼ノ城」など、物語ゆかりの史跡や地名が今も残っています。作り話にしては規模が大きいようです。 「矢喰宮」もその一つです。




物語では、「吉備津彦命」が射た矢と鬼ノ城の「温羅」が迎え撃った矢が、不思議なことに何度も噛み合って落ちたと言われる場所に祀られているのが「矢喰宮」(写真上)です。神社本殿の後方が鬼ノ城です。(資料1)

実際、命が戦いのために楯(攻撃の拠点)を構えたと言われる「楯築遺跡」と温羅の居城「鬼ノ城」を結んだ線上のほぼ中央に「矢喰宮」があります。その3地点は、見事に一直線上に並び、「矢喰宮」はそのほぼ中点にあたります。(資料2)(資料3)


物語では、命が吉備中山から射た矢が噛み合って落ちた場所が矢喰宮と言うことになっていますが、物語が真実なら実際は攻撃の拠点「楯築遺跡」から射た矢が噛み合って落ちた、と考える方が自然でしょう。なぜなら、「吉備津神社」「矢喰宮」「鬼ノ城」は、同一直線上では無いからです。「矢がお互い5kmも飛んでかみ合って落ちた」とは俄に信じられませんが、楯築遺跡と鬼ノ城を結んだ直線のほぼ真ん中、しかも当時は海の中だった場所に大きな花崗岩が何個も運ばれ矢喰宮が祭られていることは、何か特別な意味のあることかもしれません。

上の写真は手前柵の中が吉備津神社入り口にある「矢置岩」です。この場所からは手前の山に遮られて、直接鬼ノ城を見ることは出来ません。というより、吉備津神社の現在の敷地内から鬼ノ城を見る事はほとんど出来ません。南に伸びた回廊の一番南あたりから、ほんのわずかに見え始める程度です。同時に鬼ノ城からも吉備津神社は見えないわけですが、神社裏の中山を少し登ったところからは鬼ノ城を窺うことができます。つまり鬼ノ城からも直接こちらの陣地を見る事が出来ないけれど、こちらからは少し登ったところから鬼ノ城が見える訳ですので、命が陣を構えるには案外良い場所だったかもしれません。
温羅の放った矢を空中でダイレクトキャッチしたミコトの家来もいたそうで、「縁起」は現実離れしたSFスペクタクル戦争時代劇の様相を呈しています。