仏教と物理学の問題(6) | ゴトーを待ちながら

ゴトーを待ちながら

尽きかけている命の日々に、こぼれていく言葉のいくつか。

真の思索家は、あらゆる運動の本質について、このような考えを持つことが絶対的に不可欠となる。影から光そのものについて何らかの結論を引き出すのがほとんど不可能なように、動きからエネルギーについて結論を引き出すのはできない。唯一、そこにエネルギーがあるということしかわからない。また、エネルギーそのものは、依然としてアクセスが不可能なままだ。エネルギーの伝達に媒介があるか無媒介かについては、「動き」という事実は何も情報を提供しない。

ここで物理学者はこう言うだろう。「動きが媒介によって伝達されることは実験で証明されている。途中のあらゆる地点でエネルギーを捕捉し、その媒介の経路を追跡できるからだ」。

しかし、これはひどく間違った結論だ。

確かに、私が磁石と針があれば、好きなだけ途中で磁気エネルギーを捕捉できるし、したがってエネルギーの「経路」を自分で作成できる。しかし、そのような「経路」は、瞬間的な反応をつなぎ合わせた人工的な死に線にすぎない。それはけっして現実的で有効な連続性を持っておらず、区間における瞬間性と多様性だけを基礎に作り上げられた連続性でしかない。