織田作之助【大阪の憂鬱】
織田作之助の面白い随筆を見つけました。面白いと言うと、語弊があるかもしれません。というのは、内容は戦後まもなくの闇市場のことが中心だからです。
タイトルに「憂鬱」とついていますが、彼が憂鬱になるのも仕方のないことでしょう。青春時代を過ごした大阪のほとんどが灰になってしまい、彼が小説の材料としていたものが跡形もなく消え失せたのですから。その喪失感は、とてつもなく大きかったと思います。
しかし、大阪はたくましく復興していきます(その復興の仕方が東京と違っているところも面白い)。この大阪のエネルギーはよく知られているところです。大塩平八郎の乱も大阪ですし、私の若いころには「アパッチ」というのがいました(開高健さんが本にしています)。
織田作之助もそのことを認めており、大阪の闇市場は京都や東京にない「迫力」があると言っています。しかし、それでも彼は「憂鬱」です。彼は、この復興の力を、建設的なものというより飢餓感から来たネガティブなものではないかと問いかけます。
彼の憂鬱とはいったい何なのでしょうか? 彼の癒せない喪失感とは何なのでしょう?
大阪のことをまったく知らない部外者でしかない私には、その答えはありません。
小商人でも芸事を習い浄瑠璃をうなりながら帰途に就いたり、貧乏していてもみそ汁の出汁を自分好みにするのに手間を惜しまなかったり(これらはいずれも『夫婦善哉』の情景です)するような、生活に密着した大阪人の美学とか?
将棋の大一番で、後手であるにも関わらず、初手で端歩を突くような独特の人生哲学とか(織田作之助は、これを新聞で読んで「坂田はやったぞ」と叫んだと『驟雨』に書かれています)?
風土とアイデンティティの問題は、究極的にはその土地の人間にしかわからないでしょうし、個人差もあるでしょう。
しかし、無責任な言い方ですが、この織田の「大阪の憂鬱」は現在まで続いているような気がしてなりません。