誰も望んではいないから。その涙をぬぐってください。 01 | 311〜 この島をみつめて

311〜 この島をみつめて

この美しくも不思議な島を、ファインダーを通して見つめつづけてきたフォトグラファー内藤順司と
目を瞑って内側から見つめつづけてきた春名尚子。日本という島の現在とこれからの世界をみつめる旅の記録。

宮城県牡鹿郡女川町

水の力で引きちぎられた電柱
普通に生きていると目にしたことのない光景が、あちこちに広がっている。




  *


8月に牡鹿半島を訪れた。
あの地震から約5ヶ月。
わたしがいる場所よりも、もっと奥まで海がやってきて
たくさんのものを運び去っていったのだという。






その半島に、どうしても行きたかった。
地震の後、ずっとひとつの言葉が頭の中で響いていた。
その言葉が、その半島の名前だと知ってからは特に。


何があるというわけではなく。
ただただ、その場所に訪れたかった。
その希望が叶えられたのは、地震から5ヶ月も経てからのことだった。




言葉を失ってしまうほどの光景。
それが海岸沿いにひたすらに続いている。

ただ、あの時のままに。

上の写真は、ただの草原じゃない。
この草原一帯に、家があった。
あの瞬間までは、ひとびとの暮らしがあったのだ。


その日は、夜に予定が入っていたので遅れるわけにはいかず、通り過ぎる予定だったのだけれど、
その光景を目の当たりにして、さっと通り過ぎることなんてできるわけがなかった。

すこし走っては車を停めて、ただただ立ち尽くす。
そんなことの繰り返しだった。

その建物を見た瞬間、一体それがなになのか想像もつかなかった。
小学校の看板が目に入った時、身体が硬直した。



内藤さんの運転する車の助手席で、言葉を発することもできずに
ノートパソコンを開いた。


確認をしたくないけれど、調べずにはいられない。
Googleでその小学校のことを検索した。
その結果が表示された時、涙と一緒にやっと言葉が出た。


住民の助言で高台に避難 石巻・谷川小  【河北新報】



「大丈夫だったって。みんな逃げられたそうです」


硬直していた身体がすこしほぐれた。
あらためて記事に目を通す。


3月11日の地震直後、校庭に集まった児童と教職員は、避難してきた地域住民の助言で、高台を通る県道に移動。
 直後に津波の第1波が押し寄せ体育館が流された。校舎2階まで水没するほど水かさが増したため、
児童らは山に登って逃げた。
 波が収まった午後5時すぎには、小高い丘にある神社に避難。住民約20人とともに不安な一夜を過ごした。
翌12日は隣の集落に移動して食事を分けてもらい、13日には全児童が保護者と再会を果たした。」




ほんとうによかった。
だれひとりとして知っている人はいないけれど
それでも、ほんとうによかった。


つらいはなしをたくさん聞いてきたあとだけに、
子どもたちが津波の直接の被害を受けずに済んだということを知って、
すこしだけ、ほっとした。



ふたたび車を走らせると、
木々の合間に朱色の鳥居が見えた。



「あ・・・ これは」


そう思っていると、車が止まる。

「ここ、行く?」 と、内藤さん。


先を急ぐ旅だったので、止めてくださいと言いにくかったのだけれど
それを察知してくれたのか、車を止めて聞いてくれた。



記事には、子どもたちは高台の神社に避難して無事だったと書かれていた。

この神社なのか、違う神社なのかはわからないけれど、
わたしとは縁もゆかりもない人たちだけれど、どうしてもお礼を言いたいと思った。


わたしは車を降りて、神社へと歩いていった。



つづく