「ワンコ星ひとつ欲しいとの祈り」より
見たことがないせいか、物を知らないせいか、「星がひとつほしいとの祈り」(原田マハ)を読んで初めて’’沈下橋’’というものを知った。
本書の最終作である「沈下橋」は、高知県の四万十川を舞台にした、別れた夫の連れ子・由愛と義母・多恵の話である。
主人公の多恵は、子供がないまま最初の夫とは死別し、再婚した夫とは、夫の浮気が原因で離婚に至り、来年は60歳という現在、村はずれの食堂で働きながら穏やかに暮らしていたのだが、そこに別れた夫の連れ子であった由愛から電話が入る。
歌手として成功していた由愛であったが、大麻使用が発覚し追われる身となり、かつての義理の母をたより、高知まで落ち延びてきたのだ。
一緒に暮らしたのは、由愛が13の時からの5年間で、その間も、完全に打ち解けた間柄になったわけではないが、義娘には自分が一番得意な歌を義母が理解してくれているという想いがあったし、義母は素直に義娘の歌が好きだった。
一番大切なものを理解されているという信頼感があったからだろうか、義娘は、逮捕を目前にして義母をたより高知まで来たのだが、素直になれず「川を見に来た」という、その川が四万十川だ。
つい最近 「川を渡る覚悟で海を渡る」で、人生を一歩前に進めるために乗り越えるべき川を書いてたが、本作は、二人の人間の間に横たわる距離を「川」で表現している。(『 』「沈下橋」より)
『二人の間には、容易には超えられない川がある※』 と多恵は感じていた。
『(13歳で初めて会った時)最初は大河のようだった、向こう岸はかすんで見えないくらいだった。一緒に暮らすうちに、次第に川幅は狭まっていき、手を振れば見える、笑えばその顔も見える程度になり、いつしか小川程度になっていた』
離婚を機に、その川幅は一気に広がり、やがて岸も消えてしまっていたのだが、非常事態を前に、二人の間の川幅は手を取りあえるまでに狭まり、二人して四万十川とそこに架かる’’沈下橋’’を見つめているのだ。

本書によると’’沈下橋’’とは、増水時に川に沈んでしまうように設計されている、欄干のない橋のことをいう。
台風や大水の時には水中に沈むことが前提なので、低い位置に架橋され、流木や土砂が引っ掛からないように最初から欄干は設けていない’’沈下橋’’を、多恵は『こじゃんと賢い橋やね』という。
『なんだか、橋が自分で水をくぐちゅうように思えるちや。嵐のときは抗わんで、わざと飲みこまれて、全部通り過ぎたらけろっと出てくるらぁて、まっこと賢いがやない?』
そう言いながら、これから囚われの身になる義娘に、声なき声を送っている。
『この橋になればいい。』
『嵐のときには水に沈み、じっと耐える橋。空が晴れ渡れば、再び姿を現す橋に』 と。
次のステージへ進むために越えるべき物の象徴として描かれる’’川’’、人と人との距離を描くための’’川’’。
いずれも心理的には隔たりを感じさせるものだが、当然のことながら、川には橋を架けることができる。
夢や人との間に橋を架けることを諦めてもいけないが、同じ架けるならば、逆境でポキリと折れてしまうような橋ではなく’’沈下橋’’のような地味ではあっても強い橋を架けられる人になりたいと思わせてくれる、「沈下橋」であった。
写真出展 wikipedia「沈下橋」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E4%B8%8B%E6%A9%8B#/media/File:Shimanto_iwama_chinkabashi.jpg
追記
※ 本書では「容易には超えられない川がある」とあるが、この場合「越えられない」ではなかろうか。
恥ずかしながら、今でも時々「超える」と「越える」の用い方に迷うことがある私なので、自信をもって言うことはできないが、私ならここは「越える」を使ってしまうところだが。
見たことがないせいか、物を知らないせいか、「星がひとつほしいとの祈り」(原田マハ)を読んで初めて’’沈下橋’’というものを知った。
本書の最終作である「沈下橋」は、高知県の四万十川を舞台にした、別れた夫の連れ子・由愛と義母・多恵の話である。
主人公の多恵は、子供がないまま最初の夫とは死別し、再婚した夫とは、夫の浮気が原因で離婚に至り、来年は60歳という現在、村はずれの食堂で働きながら穏やかに暮らしていたのだが、そこに別れた夫の連れ子であった由愛から電話が入る。
歌手として成功していた由愛であったが、大麻使用が発覚し追われる身となり、かつての義理の母をたより、高知まで落ち延びてきたのだ。
一緒に暮らしたのは、由愛が13の時からの5年間で、その間も、完全に打ち解けた間柄になったわけではないが、義娘には自分が一番得意な歌を義母が理解してくれているという想いがあったし、義母は素直に義娘の歌が好きだった。
一番大切なものを理解されているという信頼感があったからだろうか、義娘は、逮捕を目前にして義母をたより高知まで来たのだが、素直になれず「川を見に来た」という、その川が四万十川だ。
つい最近 「川を渡る覚悟で海を渡る」で、人生を一歩前に進めるために乗り越えるべき川を書いてたが、本作は、二人の人間の間に横たわる距離を「川」で表現している。(『 』「沈下橋」より)
『二人の間には、容易には超えられない川がある※』 と多恵は感じていた。
『(13歳で初めて会った時)最初は大河のようだった、向こう岸はかすんで見えないくらいだった。一緒に暮らすうちに、次第に川幅は狭まっていき、手を振れば見える、笑えばその顔も見える程度になり、いつしか小川程度になっていた』
離婚を機に、その川幅は一気に広がり、やがて岸も消えてしまっていたのだが、非常事態を前に、二人の間の川幅は手を取りあえるまでに狭まり、二人して四万十川とそこに架かる’’沈下橋’’を見つめているのだ。
本書によると’’沈下橋’’とは、増水時に川に沈んでしまうように設計されている、欄干のない橋のことをいう。
台風や大水の時には水中に沈むことが前提なので、低い位置に架橋され、流木や土砂が引っ掛からないように最初から欄干は設けていない’’沈下橋’’を、多恵は『こじゃんと賢い橋やね』という。
『なんだか、橋が自分で水をくぐちゅうように思えるちや。嵐のときは抗わんで、わざと飲みこまれて、全部通り過ぎたらけろっと出てくるらぁて、まっこと賢いがやない?』
そう言いながら、これから囚われの身になる義娘に、声なき声を送っている。
『この橋になればいい。』
『嵐のときには水に沈み、じっと耐える橋。空が晴れ渡れば、再び姿を現す橋に』 と。
次のステージへ進むために越えるべき物の象徴として描かれる’’川’’、人と人との距離を描くための’’川’’。
いずれも心理的には隔たりを感じさせるものだが、当然のことながら、川には橋を架けることができる。
夢や人との間に橋を架けることを諦めてもいけないが、同じ架けるならば、逆境でポキリと折れてしまうような橋ではなく’’沈下橋’’のような地味ではあっても強い橋を架けられる人になりたいと思わせてくれる、「沈下橋」であった。
写真出展 wikipedia「沈下橋」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E4%B8%8B%E6%A9%8B#/media/File:Shimanto_iwama_chinkabashi.jpg
追記
※ 本書では「容易には超えられない川がある」とあるが、この場合「越えられない」ではなかろうか。
恥ずかしながら、今でも時々「超える」と「越える」の用い方に迷うことがある私なので、自信をもって言うことはできないが、私ならここは「越える」を使ってしまうところだが。