百地三太夫って・・・ | Ready To Fly❄️️




    ツイッターで見かけた毎日新聞の記事です✨

    百地三太夫の子孫が三重にいらっしゃるんですね




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    支局長からの手紙   百地三太夫屋敷  三重  

    毎日新聞 2016年3月14日  地方版



    「見学者に『忍者屋敷なら回転扉の仕掛けはないの?』と聞かれますが、忍者は外で仕事をするので、家に仕掛けは必要ないのに……」。

    こう苦笑するのは、上級忍者「上忍」だった百地三太夫(ももぢさんだゆう)の子孫、百地三喜夫さん=名張市竜口。


    農業をしながら、三太夫の生家に住み「伊賀まちかど博物館」の一つとして一般公開しています。

     門は明治時代に移築した物で「百地三太夫屋敷」の看板を掲げています。庭には、1968(昭和43)年建立の供養塔があり、当時の田中覚知事が揮毫(きごう)。室内の壁には、やり、弓などを飾っていますが「くさり鎌」と、ユリの花のように四つの鋭い爪がある「鉤(かぎ)縄」の武器は「物騒なので、普段は見せていない」と三喜生さん。

    私は写真撮影しない条件で特別に見せていただきましたが、特に鉤縄は長さ1・5メートルの縄の先端の金属が四つのパーツの組み合わせではなく、一つの鉄の塊から4本の爪を削り出している点に驚きました。


     そんな珍しい武器を受け継ぐ百地家は800年以上前から続くそうですが、詳細は不明。後述の「天正伊賀の乱」で寺が焼かれ、系図の史料が燃えたからです。ただ、三喜生さんは三太夫から数えて十九代目だそう。「うちの屋号は『本家』と書いて『もとんじゃ』と読む。子どもの頃は『どこの百地さん?』と聞かれ、屋号を言うと、『ああ、三太夫さんとこ!』と言われた」と懐かしみます。


    百地三太夫は、服部半蔵、藤林長門守と並んで「三大上忍」と呼ばれますが、生没年は不明です。その訳を三喜夫さんは「三太夫は伊賀南部の忍びを束ねていました。忍びは人々に恐れられ、一目置かれた存在。その長の生死を不明にしていたのは、おる意味、自然のこと」と解説しました。


    謎に包まれた三太夫は小説「賊禁秘誠談」に石川五右衛門の師匠として登場。五右衛門が三太夫の本妻と密通して愛人を井戸に投げ殺し、破門され、京都で盗賊になる物語です。この点、三喜生さんは「私が聞いたのは、伊賀の忍びに五右衛門という男がいて、働かないので、三太夫に破門された。その後、屋敷にいた『おかん』という女性を殺して井戸に投げ込んだという話です」と「密通説」を否定。ただ、「敷地内に『おかんの井戸』はありますが、今は一般公開していません」とも語ります。

       

    「小説が面白いのは二つの訳がある」と三喜生さん。「一つは戦国時代、読み書きできる者は少なかったのに、江戸時代に増えた。小説家も増え、面白く書かないと売れないので、事実から外れ、歴史がゆがめられた」と分析。「二つ目は、忍びの仕事に関する文献が少なく、話を面白くするのに都合が良かった。

    証拠を残すようでは、忍びではない。人知れず仕事をする摩訶不思議な存在なので、水の上を歩き、高い所を跳び、煙で消えるキャラクターにしやすかった」と推定します。

    「実際は農業や鍛冶屋、染め物屋をなりわいとして、戦があれば行くし、主人の命令が出れば忍びの仕事もしたのでは」と想像。「忍びの術と言うから、ややこしい。襲われたときの護身術や身近な棒きれを使った武術は身につけていたでしょうが、マジックのイリュージョンのように煙では消えない」と強調します。

       

    百地三太夫を一躍有名にしたのは、先述した「天正伊賀の乱」。天正7年の第一次天正伊賀の乱では、織田信長の次男 信雄 が1万の兵で攻めましたが、伊賀勢はゲリラ戦で撃退。2年後の天正9年は信長が4万の兵で伊賀を取り囲んで焼き払い、大人、子どもを問わず殺害。三太夫は名張の柏原の砦に籠城し、織田軍を悩ませたそうです。


    三喜生さんは「父から『天正伊賀の乱は、ひどい惨状だった』と聞きました。今も地元のお年寄りは『ち』は血を連想させるとして『ちまき』と言わずに『つまき』と言う。柏原では端午の節句でも『ちまき』をあまり作らない」と説明。

    「私の名字の読み方も、子どもの頃は『ももぢ』ではなく、『ももじ』を使っていました」と振り返ります。430年以上たっても後世の人々の暮らしに影を落とす天正伊賀の乱。歴史の重みを痛感しました。【名張支局長・村瀬達男】





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    430年ってすごい!!!

    小説だと、百地三太夫は

    赤子の無門を買ってきて

    忍びとして育てた御屋形様ですよね

    最強の忍びとなった無門を

    他国の戦にも貸し出して銭を儲けたとか

    だから無門は一目置かれていた


    無門にとって親のような存在だったのかな

    それとも上忍と下忍という関係だけだったのか

    三太夫と幼い頃の無門

    一度でも手を繋いだことはなかったのかな…