「世の中には もっとつらい境遇にある人がたくさんいるんだ」
相対的にみて豊かな環境にいる人間が失敗し「苦しい」なんて口にした時、
「世の中にはもっとつらい境遇にある人がたくさんいるんだ」と反論する人がいる。
例えば極端だが一例を出す。
親の金で一流の大学まで行かせてもらい海外にも留学した。
この人の周りには同じような友達ばかり。
この人がいざ就職しようとしたとき、ガンにかかりまともに仕事ができる状況ではなく、自宅療養となったとする。
世間一般はこの人のことを、「親の金で大学まで勉強させてもらって今は働かずに自宅にいる、のんきだ、甘えている、世間をなめている」と批判するだろう。
じゃあここで質問。
中卒で働かなければいけなく朝から晩まで働いている人間
周りの友人も同じで働いている、と
一流大卒でも病気で働くことが出来ず周りの家にいる人間
周りの友人は一流企業で働いている、
「大卒で家にいる」という現実だけ見ればどう見ても後者は怠け者、甘え者かもしれない。
でもつらい思い、下手したら自殺してしまうかもしれないのは後者。
これは甘やかされて生きてきたからじゃ決してない。
自分が生きるべき環境の中で自分がうまく生きていけないから。
カウンセリングに来る人には色々な事情があると今日改めて身にしみた。
挫折よりも辛いことは挑戦できないこと。
挫折よりも辛いことは挑戦できないこと。
挫折した?思い通りにいかなかった?
でもあなたは挑戦する事は出来たんでしょう?
挑戦することすらそもそもできず夢を諦めなければいけない人が
世の中には億単位でいる。
挫折した人はどうか挑戦できる喜びをかみ締めてめげずに挑戦し続けて欲しい。
「英語を勉強したい」と思っているうちは英語力は伸びない
英語で何をしたいのかを見つけなければ英語力はついてこない。
公立中学の英語の教科書を見て愕然とした。
楽しい読み物が載っているわけでも、コラムが載っているわけでもない。
ただ文法と確認問題があって、たまにある読み物はクソつまらない。
これじゃ生徒は、テストの点数をとるため、という目標でしか英語を勉強しなくなる。
テストで点数を取れる英語力と、現実世界で役に立つ英語力は違う。
生徒はテストがあるからどうしてもテストで点数を取れる英語力を持つことに必死になってしまう。
生徒には読み物を楽しみたいとか英語を話す外国人と会話を楽しみたい
っていう目的をもってもらうことが重要。
先生はそれをきんちんとバックアップする必要がある。
必要にかられて英語を勉強し始めれば、
大抵3ヶ月もあれば英語をものにできるよ。
中高6年間勉強しても英語さっぱり!という人は、
テスト以外に英語を習得する必要にかられていなかったでしょう?
将来の夢、「あなたにしかできないこと」 なんてない。
あなたにしかできないこと、なんてない。
何をやるか、なんでも訓練すればできる。
すなわちあなたが何をやりたいか、何をやっているときに夢中になれるかが重要ってこと。
子供に「本を読め!」とだけ言う大人
子供に「本を読め!」とだけ言う大人
「具体的にどんな本を読めばいいのか例をあげてよ!」って反撃して、「そんなの自分で探せ、ニーチェとか読む高校生もいるんだ!」なんて言う大人は自分では本をまもとに読んだことのない口先だけの大人だから信用しなくてよい。
具体的に何を読むべきか提案してくれる大人を信用しよう。
世の中にある本の中には読むに値しない本が沢山ある。自分がたまたま出会った本が良本か悪本かんなんて高校生以下の生徒にはなかなか判断しにくい。それなのに本を読めとだけ言うなんて無責任で世の中にどんな本がまかり通っているかも知らないアホな大人がすること。
まずは良本を読み込み、そして質の良い文章(論理性に優れている、感情表現が秀逸、場面描写が秀逸、文法が綺麗、展開構成が秀逸、時代背景を見事に描いている)をよく知る。そうすれば自分でたまたま探し出した本が良本か悪本か判断できるようになる。
だから高校生以下の生徒はとにかく大人に質のいい文章の本をアドバイスしてもらおう。学校の国語の先生とか図書室の司書なんて絶好の相談相手じゃない。もし相談しにくいなあとか、相談する程じゃないけど何か本を読んで見たい気になったんだよなあという時は、国語の教科書に載っている文章の全文を読んでみるといい。
話はそれるけど、国語の教科書に載るほどの文章というのは本当にすばらしい日本を代表する作品なのに、教材として使うために作品の中から無理やり2、3ページ分だけ抜粋してきて教科書に載せてその部分だけ生徒に読ませて作者の感情を読み取れだの、作者の心情を30字で説明せよだの無理があるっつーか作品を舐めているっつーか…例えば「こころ」を書いた夏目漱石は作品全体でその作品の登場人物の性格や感情の起伏を表現して読者に伝えようとしているのに、そんなわずか2,3ページで理解しろって、無理あるよねぇ!ってかもったいない!
話を戻すと、教科書に載っている作品の全文をきちんと本で読むことをおすすめする。
それでもし夏目漱石の世界観に興味をもったなら、他の作品を読んでみればいい。読みにくいと思ったら他の太宰治でも芥川龍之介でもどんどん乗り換えていってOK。
あ、最後に一言。最初に例に出したニーチェ?のことだけど、
ニーチェを読む奴なんて変人奇人だぜ!ほっとけほっとけ!
他人を無理に理解しようとしなくていい
他人を無理に理解しようとしなくていい。
ただ理解するつもりがないなら適当なことを言うのはやめよう。
他人に理解されなくてもいい。
ただ理解するつもりがないのなら適当なことを言うのはやめて。
ある障がいを負った生徒の叫び。
教師・大人に反発する生徒の心理
(すべての生徒に当てはまるわけではないことを最初にことわっておく)
教師に信用されていないと感じる態度・言葉をなげかけられたとき、
本来、教師に信用され期待されたいという願望をもつものである生徒は悲しくなりむなしくなる、
そこで生徒はぐれて反発することで、自分がこういう態度をとっているから教師は自分に期待しないんだという理由付けを無意識の内に行ってしまう。
何か悪いことをしているわけでもない、成績もいいわけじゃないけどがんばりたいと思っている自分が教師・大人から期待されないなんていう現実よりも、態度が悪いもしくは悪事を働いた自分だから大人も自分に冷たいのだと思うほうが楽なのだ。
グレてしまうのは生徒が教師大人を軽視しているからじゃない、教師大人が生徒を軽視したからだ。
常用漢字の書き順でその人の育ちが分かる
小学生4年くらいまでに習う常用漢字の書き順でその人の育ちが分かる。
親がしっかりしているか、根が真面目かなど。
誰もが中学受験など関係なく平等に受ける義務教育の中でも基礎教育である常用漢字の習得。ドリルで正しい書き順とか何回も書かせられて習ったでしょ。
別に漢字習得は、小さい頃勉強をさぼっていた人でも大人になってから習得できる。3、4回手を動かして書けばバカでも習得できる。それに年を重ねれば嫌でも本や新聞でその漢字を目にする頻度が多くなり自然と覚えてしまっていることも多い。しかし大人になってしまうと「正しい書き順」まで気が回らない。そんなのどうでもいいから。まあ実際どうでもいいのだけれどね。
ただだからこそ、常用漢字の書き順でその人が小学生の頃、まじめに授業を受けていた生徒なのか、きちんと学校の授業を吸収するようにしつける親がいたのかが見えてきてしまう。
「飛」「必」「美」とかね。汚い書き順の大人、時々お目にかかるけど、なんだろう、どんなに立派なスーツを着て立派な肩書きが書いている名刺を差し出しても、書き順が汚いと、その人の真の性格が歪んで見えるのは…
看板「ご理解ありがとうございます」を考えてみる
お詫びをする際に「ご理解ご協力お願いします」というフレーズを使うのは、私は反対ではない。確かに言葉の意味から考えると、何に対して理解すればいいのか説明が欠落しているが、それはあえて説明する必要がないから省かれているのである。例えばエレベーターが故障した際に、「故障中、ご理解ご協力お願いします」と書かれた貼紙がしてあれば、何か機械のトラブルがあったのだろうと理由を推測できるし、「在庫が切れている、ご理解ご協力お願いします」と言われれば、今人気の商品なのだろうと推測できる。多くのサービスが社会の中でめまぐるしく動いている現代は、小さなトラブルや不都合は頻繁に起こるものであり、日常で起こることであるがゆえに、消費者側はそれらを寛大に受け止めていかなければストレスがたまる一方である。むしろその理由を詳しく説明しろと要求したところで、「機械のこの部分のパーツの接続が悪くて・・・」などと詳しく説明されても、機械マニアは例外として、大抵の人は興味がない。自分で推測できる範囲の理由で十分なのである。それで十分ではない何か非日常的な重大な不都合が生じた場合には、きちんと供給者側は説明を行っていると私は思う。非日常の出来事に関しては消費者側も興味があるし、供給者側も自分たちの信用のためにも必死に説明しなければいけないからだ。
このように日常に使う言葉で省略が起こることは、珍しいことではない。例えば日本語の「こんにちは」も「今日(きょう)は~ですね」という挨拶を短く簡潔にしたものである。「こんにちは」と人に言われて、「今日(きょう)は、その次は一体なんなのだ?きちんと説明しろ。」と言う人はいない。「こんにちは」という言葉自体にすべての意味がこめられているのである。これが決まり文句というものであるが、「ご理解ご協力お願いします」も同じである。ただ「こんにちは」は元々の「今日は」という言葉が連想されにくいのに対し、このフレーズはひとつひとつの言葉に、「ご理解」や「ご協力」という風に意味がはっきり残ってしまっているため、決まり文句として使うのにいまいち現在は定着していないだけではないかと思う。
「ご理解ご協力お願いします」というフレーズに対して、私は以上の理由で特に使用することに反対はしない。消費者側がサービスを提供する側に気遣いをすることも大切なことである。ただし「ご理解ありがとうございます」というフレーズに関しては、消費者側にしてみれば不都合の原因をたとえ理解承諾していなくても、不都合に耐えるくらいの理性を持ち合わせているわけであるから、あたかも不都合に耐える=不都合の理由を理解してくれていると決め付けられてサービスの供給側が勝手にうぬぼれているように感じられ不快感を覚えるため、この表現は使用を控えるべきだと思う。