高麗王若光の墓 | 琥翔のブログ

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埼玉県日高市聖天院にある高麗王若光の墓










Wikipediaの高麗若光説明には

高麗 若光(こまの じゃっこう、生没年不詳) は、奈良時代の豪族、在庁官人。氏姓は高麗王。 官位は従五位下・高麗郡大領。
外国の王族の子孫を意味する姓である王(こきし)姓の賜与を受けているとも言われ、高句麗王族と見られるが出生未詳。一説では高句麗王族の背奈福徳(肖奈福徳)と同一人物とする。一方、高麗姓の由来は高句麗ではないとして、高句麗王族との出生を疑問視する説もある。

666年(天智5年)高句麗の使者(副使)である玄武若光として来日する。668年(天智7 年)唐と新羅の連合軍によって高句麗が滅ぼされ たため、若光は高句麗への帰国の機会を失ったと考えられる(『日本書紀』)。

朝廷より、従五位下に叙された。 703年(大宝3 年)に文武天皇により、高麗王(こまのこきし) の氏姓を賜与されたともされるが(『続日本紀』)、ただし、これ以後国史に若光及び「高麗王」という氏姓を称する人物は全く現れない。 『日本書紀』の「玄武若光」と『続日本紀』の 「高麗若光」が同一人物ならば、高句麗王族の一人として王姓を認められたということになるが、証明出来ていない推定であり、その生涯も記 載がなく不明である(新説『埼玉県史』)。

716年(霊亀2年)武蔵国に高麗郡が設置された際、朝廷は東海道七ヶ国から1799人の高句麗人を高麗郡に移住させている(『続日本紀』)が、若光もその一員として移住したものと推定されている(新編『埼玉県史』)。

埼玉県日高市新堀にある聖天院・勝楽寺は高麗氏の菩提寺。若光の三男とされる聖雲が建てた。聖天院・勝楽寺の雷門手前右側に、若光の墓とされる高麗王廟があり、聖天院本堂左側には若光の銅像がある。』

とある。
なお『聖天院本堂左側には若光の銅像』とあるが、銅像ではなく、石像



である。
また墓石の形状としては、宝篋印塔に近いもの、或いは塔状のもの


(写真は同所にある在日韓民族無縁仏慰霊塔)
ではないかと思われる。




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