東日本大震災から一年


早かった?長かった?


一言では言えない時間でした。






2011年3月11日


買い物へ向かう車の中で地震

周りのビルがゆっさゆっさ揺れている。

恐怖に襲われ震えながら実家へ向かった。

テレビに映し出された岩手県宮古港の津波映像


岩手にいる叔母、従姉妹達、父の安否が気になるが、携帯・家電繋がらず。


3月12日~

テレビから流れてくる現状に焦りばかりがつのる

従姉妹へメール・留守電を残し返事を待つ



3月15日

兄がテレビで従姉妹ががれきの中でポツンと立っている映像がテレビで出ていたと言う。

ネットで避難者リストを探し始める。



3月16日

避難者リストに叔母、従姉妹家族、従兄弟家族の名前を見つける。生きていた。

後は、釜石の病院に入院していた父だけ。



3月24日

従姉妹からメールが届く

叔母と家族と一緒に避難所にいる事、弟家族も無事だと言う事。電波がなかなか通じない事。

命があればなんとかなると前向きに考えるようにしている。と書いてあった。



3月26日

従姉妹から電話が入る

叔母と一緒に避難所を出て叔母の職場の倉庫で寝泊りをさせてもらっていると。

弟家族は小学校に避難していたけど学校が始まるからと盛岡の温泉施設へと移動したと。

叔母とも電話を代わって話をし、父は釜石の病院だったがそこは津波がこなかったので生きている事が分かった。

ただ、従姉妹の旦那さんのご両親が津波の犠牲に。第一波が過ぎた後、自宅へ戻ってしまったらしく第二波の津波被害にあってしまいました。



3月27日

叔母から母へ電話

父が亡くなったとの事だった。様態が急変して釜石の病院から盛岡の病院へ移動したがそのまま亡くなったと。








一日。たった一日、父が生きていたと分かった一日。

何か意味があったのかな。




時間が経ち、最近叔母から聞いて分かった事。


あの震災の3月11日

叔母は午前中に父の病院へ行っていたのだそう。

そこで私が叔母にメールした娘の写真を見せてくれていた。

これがお孫さんだよ。

そう報告してくれていました。



私はその話を聞くまで、

夏に入院してしまった父とは連絡を取れなくなってしまっていたので

子供を産んだ事、父がおじいちゃんになったことを言えていなくて

それなのに父が他界してしまって報告ができなかった事がとても心に引っかかっていました。


叔母は、ちゃんとお父さんに報告していたからね。写真も見せていたからね。きっと孫の顔を胸に旅立っていったよ。と言ってくれました。




それと最近聞いたその震災当日の話。


叔母は父の病院に私の娘の写真を見せに行った後、

自宅に戻り仏壇(叔父)に病院に行った事を報告していたそうです。

その時、隣に住む方が家に来て

「津波がきているらしいから逃げるよ!」

と言われ、すぐに家を飛び出し山に駆け上がったそうです。

家から飛び出して1分後、津波で家が流されたそうです。

もし車に乗って逃げようとしていたらきっと生きていなかったと言っていました。









あれから一年


本当に本当に大変だったと思います。


従姉妹は先月、釜石に家を建てました。

従姉妹の旦那さんが「お義母さんも一緒に住もうね」と叔母に言ってくれて今同居をしています。



命があればなんとかなる


そう言ったように皆前を向いてがんばっています。




この出来事を忘れず
今できることをしていきたい。