19歳で 医師を志す
試験を 受けられたのは 34歳だよ
女性蔑視の社会に 試験にたどり着くまでは 大変な道のりが あったよ



漢方医の井上頼圀先生の私塾に入門し
その後、東京女子師範学校の一期生として学び
10年後、好寿院(お茶の水女子大学)という医学校に入学


大学生活は 大変苦労をしたようだよ
まず 大学に入学するのも 大変で
女医など いらないと
トイレに行くのも大変だったり
親からの仕送りもなしで 家庭教師をしながら 学び卒業後も
女性の医師開業試験の受験拒否という行政の壁が立ちはだかったよ



医師を志し 初めてお世話になった 井上頼圀先生は たいへん保己一を 尊敬していたよ


保己一が 発行した
『令義解』(奈良時代の頃から法的に効力のある養老令の解説書)の中に ‘医疾令’という医療制度の講義で法律で認められた女医がいたことを 思い出し
井上先生に内務省衛生局長への 働きかけを頼んだ
井上先生は 大変権威のある先生で 内務省も OKを 出さないわけにはいかなかったんだね
受験の機会を与えられ
34歳で正式に医師の道を開くことになった

2番目の女医は 2年後に13歳年下の深谷市出身の
生沢クノさん

吟子の医師への道が いかに長かったか うかがえるよね





表向きは 近代化に向かおうとしていた明治時代だが 封建社会の習慣が続いていた

吟子は 女性の地位向上を目指し
風俗改善活動
婦人参政権運動
飲酒喫煙の廃止運動
衛生知識の普及に努めた




その後 牧師と再婚し 理想社会の建設を夢見て 北海道に渡り 地元民の診療にあたった
開拓民として 大自然の猛威と貧困の闘いだった



夫と死別する不運にみまわれ
大正2年 肋膜炎を発病し 療養中に脳出血で倒れ 養女のトミに看取られ 63歳で亡くなった


日本初の女性医師という栄光とは対照的に豊かな生活とは縁のうすかった生涯だった


現在では 医師試験の合格者の30%を女性が占めるようになった






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支離滅裂な まとまりのない ブログを 読んでくださった方に 感謝します
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『埼玉の三偉人に学ぶ
堺正一・埼玉新聞社』
参考

埼玉の三偉人に学ぶ
を 元に UPしているので
ぜひ 三人目の人を 知って いただきたいんだ


この人は 保己一に 助けられたよ


日本初の公認女性医師
また
男女平等社会の実現に貢献した人物


まず この頃の 医師について(明治中頃)

医師免許がなくても 診療できた

江戸時代
医師(資格、条件なし) 誰でも医者の看板を掲げられる

患者が来るか 来ないかは 医者の腕次第だったんだね

例えば
オランダの医師 シーボルトの娘、『楠本いね』さん

明治36年に77歳で亡くなっているが
立派な女医だったよ
でも 新しい医師制度のもとでは未公認の医師にすぎなかった
医学知識や技術は 急速に進歩したよ
西洋医学には ついて行けず 患者の数も急激に減り廃業したよ


明治の頃は 急速な近代化の過渡期だったんだね

江戸時代から 未公認の医者も続けることは出来たけど
社会的評価は 低くなっていったんだね




さて
荻野吟子とは
嘉永4年~大正2年(1851~1913)
現在の熊谷市俵瀬の農家の5女
17歳で結婚
19歳で夫から淋病を移され 実家に戻る

東京順天堂病院での療養中に屈辱的な扱いをうける
元、夫の不品行に 吟子は一生 この病気に 苦しめられた

若い女性の羞恥心を無視したかのような扱いに
19歳の吟子は 女医を目指す決意をしたんだよ



続く


大雨の 災害やら
御嶽山 水蒸気噴火 やら

火山大国 なんだか こわくて 山登りも よっぽど 選ばないと
景観や 登り易さだけでは命に 関わる

しかし 起きてみなけりゃわからない
厄介なものです




9月 上半期終了

大福も スズキの代理店に売り上げ 協力したでぇ
15年、足として走り回ってくれた バモスと お別れするよ


自転車積んだり
ベビー布団 敷いて
眠くなると 娘は 自分で 潜ってった

冬は エンジンが 直ぐ下にあったから ぬくぬくだったみたい


そのうち 5歳以下に ジュニアシート着用が 義務付けられたよ



普通車に 乗ってたのに 段々 ちっこくなるんだけど

無収入の大福には 分相応なのかな…



寂しいけど 楽しみだ
o(`▽´)o