20代の自閉症の娘さんと暮らすお母さんが書かれた本。
息子さんがドキュメンタリーの映画も撮られている。
大人になってもずっと家にいる娘さんの千鶴さん。
まだ全部読んでないけれど、色々と考えさせられる。
こないだ、幼稚園の音楽会で気づいた自分のイヤな部分
その答え合わせのように、「障害受容への第一歩」という記述があった。
「子どもの頃から差別をしてはいけないと頭ではわかっていて、障害をもつ人への同情はあったかもしれないが、心の底では健常者とははっきり線を引いて、あちら側の世界の人たちと位置づけていた」
ああ、同じだ!と思う。
息子が自閉症疑いになってから、1年間くらいは闇落ちして、世界から取り残されたような感覚になってた。
自閉症スペクトラムと診断がおり、落ちついた後も、すきあらば感傷的になってしまう。ウェットに。
ほんとなら、育児待ったなし、子供はどんどん成長(遅いながらも)していくし、
しかもここまで成長させてね、って基準もどんどん進んでいく。
落ち込んでる暇なんか無かったのに…。
子供が自閉症なんて私かわいそう…
もう頑張れない、将来に希望が無い…
そうやって、悲しいフィルターを通した物語に浸って、全てから逃げようとする自分が、すきあらば今も出てくる。
「ただの現実」と受け入れることが、障害の受容ということなのかな。
発達凹凸の子供を育ててきた先輩達は、やっぱり…なんというか、濃い。
センチメンタルを脇に置いて壁を乗り越えていった先輩達の前では
落ち込んでいても、恥ずかしくて涙は見せられない。
そういう意味で背中が伸びるし、立っていられる。
支えてもらっている。
(でも私には、泣ける場所もあるといいんじゃないかと思う。)
こんな子供いくら頑張って育てても何にも実らない、
将来に希望が持てないという悲観的な気持ちを感じることは無いのか。
あったならどう前向きに変えていったのか、その過程こそ教えてほしい。
「ちづる」にはその先の世界が書いてある。
不幸そうなことを抱える人生でも「幸せ」なんだ、という人が先の道を歩いている。
「自分の中に差別がある。だから千鶴の障害を受け入れるのがつらいのだと気づいた時、私も息子と同じように涙が止まらなかった。
けれども、そのことに気づいてからは本当に気持ちが楽になった。
もちろんハイパーな自閉症児を育てる大変さは何も変わらなかったが、それについてとんちんかんな感傷に浸ることはだんだんになくなっていった。」
「ちづる 娘と私の「幸せ」な人生 」より引用
だんだんと…なくなっていくものなのですね。
とんちんかんな感傷かあ。
確かに…被害者意識みたいなもの(そのもの?)だから、無い方がいいのかもしれない。
受容への道は長そうだな。