彼は昭和20年、終戦直前の5月に生まれた。
信州の田舎、六人兄弟の末っ子だった。
彼は父親の顔を憶えていない。物心ついた頃にはすでに母子家庭で、十歳以上年の離れた長男が父親のような存在だった。父親は戦死したのではない。当時すでに高齢だった彼の父親は兵役免除されていた。
虫垂炎を放置したのが直接の死因だったらしい。今では考えられないことだが、当時の状況はそれほど混乱し、物資も医療も不足していたのだろう。
周りの家庭もみんな似たりよったりで、片親家庭でもそんなみじめな気持ちにはならなかった。
当時は皆が貧しく、皆で何となく支え合って生きていた。
団塊世代の彼は、地元の工業高校を卒業すると、いわゆる『金の卵』として都会に旅立った。
故郷から遠く離れた大阪の地で彼の社会人生活が始まった。もともと頭の出来が良かった彼は、大学に進学するという選択肢もあったが、家庭の経済状態をみれば、そんなわがままなど言えるはずもなかった。
化学会社の大きな工場で三交代で現場作業に従事し。終業のベルが鳴れば急いで支度を整え、夜間大学に通った。
時は学生運動の花盛り、彼の夜間大学にもゲバ棒を持ったヘルメット姿の学生達が、我が物顔で出入りし、時に講義を妨害した。
昼間の労働で眠い目をこすりながら、必死で授業を受けている彼からしてみれば不快なことこの上ない。
彼からしてみれば学生運動など、親のスネをかじって社会に出たくないだけのワガママな遊びにしか映らなかった。それは絶対に軽蔑すべきものであり、そして同時に心の奥底では彼らのそのモラトリアムに憧れる気持ちもあった。
彼は必死で働いた。そして必死で戦った。田舎者であるコンプレックスと、貧しいことのコンプレックスと、学歴のコンプレックスと。
彼の青春は高度経済成長とともにあった。「幸福」の定義は「経済成長」と同義だった。時代がそうだったのだ。皆がそうだった。
家庭を持ち、家族が出来たときもそうだった。家族を顧みなかったわけではない。周りの皆がしているように、夫は外で仕事を頑張り、妻は家庭を支える。当たり前のことを、当たり前にしていただけ。
いったい何処に落し穴があったのだろう?どこで間違ったのだろうか?