『声はどうやら彼女の名前を呼んでいるようだった。
青豆は引き金にかけた指の力を抜き、目を細め、耳を澄ませた。その声の発する言葉を聞き取ろうと努めた。しかし辛うじて聞き取れたのは、あるいは聞き取れたと思ったのは、自分の名前だけだった。あとは空洞を抜けてくる風のうなりでしかなかった。やがて声は遠くなり、更に意味を失い、無音の中に吸い込まれていった。彼女を包んでいた空白が消滅し、栓が取れたみたいにまわりの騒音が一挙に戻ってきた。気がついたとき、死ぬ決心は既に青豆から失われていた。
私はあの小さな公園でもう一度天吾に会えるかもしれない。青豆はそう思った。死ぬのはそのあとでもいい。もう一度だけ、私はそのチャンスに賭けてみよう。生きるということは-死なないということは-天吾に会えるかもしれないという可能性でもある。生きたいと彼女ははっきり思った。奇妙な気持ちだった。そんな気持ちを抱いたことがこれまで一度だってあっただろうか?』