『青豆は拳銃の引き金を引かなかった。
9月の始めのことだ。彼女は渋滞中の首都高速3号線の退避スペースに立ち、まぶしい朝の太陽を浴び、口にヘックラー&コッホの黒い銃口をつっこんでいた。ジュンコ・シマダのスーツを着て、シャルル・ジョーダンのハイヒールを履いて。
まわりの人々は何が持ち上がっているのか見当もつかぬまま、車の中から彼女の姿を見つめていた。メルセデスの銀色のクーペに乗った中年の女性。輸送トラックの高い席から彼女を見下ろしている日焼けした男たち。彼らの目の前で、青豆は自分の脳味噌を9ミリ弾で吹き飛ばすつもりだった。自らの命を絶つ以外に1Q84年から姿を消す方法はない。そうすることによって引き換えに天吾の命を救うことができる。少なくとも「リーダー」は彼女にそう約束した。彼はそのことを宣誓し、自らの死を求めたのだ。
自分が死ななくてはならないことを、青豆はさして残念だと思わなかった。すべては私が1Q84年の 世界に引き込まれたときから、既にに決定されていたことなのだろう。私はただその筋書きをたどっているだけだ。大小二つの月が空に浮かび、リトルピープルなるものが人々の運命を支配する条理のわからない世界で、一人ぼっちで生き続けることにいったいどれほどの意味があるだろう?
しかし結局、彼女が拳銃の引き金を引くことはなかった。最後の瞬間に彼女は右手の人差し指に込めた力を緩め、銃口を口から出した。そして深い海底からようやく浮かび上がってきた人のように、大きく息を吸い込み、それを吐き出した。身体中の空気を丸ごと入れ換えるみたいに。
青豆が死ぬことを中断したのは、遠い声を耳にしたからだった。そのとき彼女は無音の中にいた。引き金にかけた指に力を入れたときから、まわりの騒音はそっくり消えていた。彼女はプールの底を思わせる深い静寂の中にいた。そこでは死は暗いものでも怯えるべきものでもなかった。胎児にとっての羊水のように自然なものであり、自明なものであった。悪くない、と青豆は思った。ほとんど微笑みさえした。そして青豆は声を聴いた。
その声はどこか遠い場所から、どこか遠い時間からやってきたようだった。声に聞き覚えはない。いくつもの曲がり角を曲がってきたせいで、それは本来の音色や特性を失っていた。残されているのは意味を剥ぎ取られた虚ろな反響に過ぎない。それでもその響きの中に、青豆は懐かしい温かみを聞き取ることができた。』
9月の始めのことだ。彼女は渋滞中の首都高速3号線の退避スペースに立ち、まぶしい朝の太陽を浴び、口にヘックラー&コッホの黒い銃口をつっこんでいた。ジュンコ・シマダのスーツを着て、シャルル・ジョーダンのハイヒールを履いて。
まわりの人々は何が持ち上がっているのか見当もつかぬまま、車の中から彼女の姿を見つめていた。メルセデスの銀色のクーペに乗った中年の女性。輸送トラックの高い席から彼女を見下ろしている日焼けした男たち。彼らの目の前で、青豆は自分の脳味噌を9ミリ弾で吹き飛ばすつもりだった。自らの命を絶つ以外に1Q84年から姿を消す方法はない。そうすることによって引き換えに天吾の命を救うことができる。少なくとも「リーダー」は彼女にそう約束した。彼はそのことを宣誓し、自らの死を求めたのだ。
自分が死ななくてはならないことを、青豆はさして残念だと思わなかった。すべては私が1Q84年の 世界に引き込まれたときから、既にに決定されていたことなのだろう。私はただその筋書きをたどっているだけだ。大小二つの月が空に浮かび、リトルピープルなるものが人々の運命を支配する条理のわからない世界で、一人ぼっちで生き続けることにいったいどれほどの意味があるだろう?
しかし結局、彼女が拳銃の引き金を引くことはなかった。最後の瞬間に彼女は右手の人差し指に込めた力を緩め、銃口を口から出した。そして深い海底からようやく浮かび上がってきた人のように、大きく息を吸い込み、それを吐き出した。身体中の空気を丸ごと入れ換えるみたいに。
青豆が死ぬことを中断したのは、遠い声を耳にしたからだった。そのとき彼女は無音の中にいた。引き金にかけた指に力を入れたときから、まわりの騒音はそっくり消えていた。彼女はプールの底を思わせる深い静寂の中にいた。そこでは死は暗いものでも怯えるべきものでもなかった。胎児にとっての羊水のように自然なものであり、自明なものであった。悪くない、と青豆は思った。ほとんど微笑みさえした。そして青豆は声を聴いた。
その声はどこか遠い場所から、どこか遠い時間からやってきたようだった。声に聞き覚えはない。いくつもの曲がり角を曲がってきたせいで、それは本来の音色や特性を失っていた。残されているのは意味を剥ぎ取られた虚ろな反響に過ぎない。それでもその響きの中に、青豆は懐かしい温かみを聞き取ることができた。』