天吾は話を続けた。
大学を卒業し、都内の予備校に勤め、数学を教えるようになった。彼はもう将来を嘱望される数学の神童でもなく、有望な柔道選手でもなかった。ただの予備校講師だ。でもそれが天吾には嬉しかった。彼はそこでやっと一息つくことができた。生まれて初めて、誰に気兼ねすることなく、自分一人の自由な生活を送ることができるのだ。
彼はやがて小説を書き始めた。いくつかの作品を書いて、出版社の新人賞に応募した。そのうち小松という癖のある編集者と知り合い、ふかえり(深田絵里子)という十七歳の少女の書いた『空気さなぎ』をリライトする仕事を持ちかけられた。ふかえりには物語は作れたが、文章を書く能力がなかったから、天吾がその役を引き受けた。彼はその仕事をうまくこなし、作品は文芸誌の新人賞を取り、本になり、大ベストセラーになった。『空気さなぎ』は話題になりすぎて選考委員に敬遠され、芥川賞をとることはできなかったが、小松の率直な表現を借りるならば「そんなもん要らん」くらい本は売れた。

「今のところまだうまくいっているとは言えないけど、僕はできればものを書いて生活していきたいと思っている。他人の作品のリライトなんかじゃなく、自分の書きたいものを自分の書きたいように書くことでね。文章を書くことは、とくに小説を書くことは、僕の性格に合っていると思う。やりたいことがあるというのはいいものだよ。僕の中にもやっとそういうものが生まれてきたんだ。…」
「僕にとってもっと切実な問題は、これまで誰かを真剣に愛せなかったということだと思う。生まれてこの方、僕は無条件で人を好きになったことがないんだ。この相手なら自分を投げ出してもいいという気持ちになったことがない。ただの一度も」
天吾はそう言いながら、目の前にいるこの貧相な老人はその人生の過程において、誰かを心から愛した経験があるだろうか、と考えた。あるいは彼は天吾の母親のことを真剣に愛していたのかもしれない。だからこそ血の繋がりがないことを知りながら、幼い天吾を自分の子供として育てたのかもしれない。もしそうだとしたら、彼は精神的には天吾よりずっと充実した人生を送ったということになる。