どれほど善意であっても、弱者や被迫害者に同情的であっても「この世の悪は“マニピュレーター”が操作している」という前提を採用する全ての社会理論は「父権制イデオロギー」である。「父権制イデオロギーが諸悪の根源である」という命題を語る人は、そう語ることで父権制イデオロギーを宣布しているのである。


なぜ私たちは「父」を要請するのか。それは私たちが「世界に秩序の制定者などいない」という“事実”には容易には耐えることができないからである。


実際には、私たちは意味もなく不幸になり、目的も無く虐待され、なんの教化的意味もなく罰せられ、冗談のように殺される。天変地異は善人だけを救い、悪人の上にだけ雷撃や火山岩を落とすわけではない。もっとも惜しむべき人が夭折し、生きていることそのものが災厄であるような人間に例外的な健康が与えられる。そんな事例なら私たちは飽きるほど見てきた。


では世界は無秩序で、全ての事はアットランダムに起きているのかといったら、そうではない。そこには局所的な「秩序のようなもの」がある。世界を包摂するような秩序を作り出すことは誰にもできない。けれども手の届く範囲に限れば「秩序のようなもの」を打ち立てることはできる。


科学的に思考し、フェアに判断し、身体感受性が高く、想像力の行使を惜しまない人々が身を寄せ合って暮らしている集団があれば、そのささやかな集団では「秩序のようなもの」が「無秩序」を相対的に制するだろう。


けれどもそれはあくまで、一時的、相対的な勝利に過ぎない。その、「秩序のようなもの」を一定以上の範囲に拡げることはできない。そのような「ローカルな秩序」はローカルである限りという条件を受け入れてのみ秩序として機能し、普遍性を要求した瞬間に無秩序のうちに崩壊する。


繰り返し書いているように、正義を一気に全社会的に実現しようとする運動は必ず粛清か強制収容所かその両方を採用するようになる。歴史はこの教訓を今のところ一つも例外がないことを教えている。


私たちは「父」を要請してはならない。たとえ世界のかなり広い地域において、現に、正義がなされておらず、合理的思考が許されておらず、慈愛の行動が見られないとしても、私たちは「父」の出動を要請してはならない。


「ローカルな秩序」を拡大しようとするとき、ひとりひと