「報道現場 著望月衣塑子」を読む
帯広告なし
表紙裏
本書の内容
コロナ禍で官房長官会見に出席できなくなった著者は、日本学術会議の任命拒否問題や根小屋入管のスリランカ人女性死亡意見など、調査報道に邁進する。その過程で、旧態依然としたメディア、そして自身の取材手法を見直してゆくゆく。「権力者が隠したい事実を明るみに出す」がテーゼの記者が見た、報道の最前線。
帯の広告がないので目次の照会
第1章 会見に出席できなくなった
第2章 取材方法を問い直す
第3章 日本学術会議問題と軍事研究
第4章 フェイクとファクトの境界線
第5章 ジェンダーという視点
第6章 ウィシュマさんの死は私たちに問いかける
第7章 風穴を開ける人たち
爪を立てる。
(引用)
企業の覚悟と題してナイキのアメリカンフットボールのコリン・キャパニック選手(試合前の国歌斉唱の際、人種差別に抗議してひざまずいた選手、トランプ大統領が17年9月ツイッターで<アメリカ国旗を侮辱することは許さないと批判、17年以降契約更新されなかった選手)を起用した例をあげが作れたのではないか。
多様性を重視し、マイノリティに光を当てる。
正義とよりよい社会を信じて企業理念を伝える。
かつての教え子が、私の常識を更新してくれた。
かついつの間にこんなに立派な青年に成長してくれたsの家と、思わず胸がいっぱいになった。
.著者のように熱量の高い人の文章は光源としての力も強く、影響力も強いことは十分承知しているつもりだが。違和感のある内容でもある。
ジャーナリストの存在はこれからもますます重要視されるだろう。
しかし、新聞がこれからも必要なのか?
必要なのは起きた事実という情報を正確に、早く伝える手段であれば方法はその次でいい。
事実が積み重なって歴史を作るのであれば量は多いほうがいい。
その中に誘導や主張はいらない。
情報の価値は受ける側が決める。
と極論を言えば今までの延長ではない将来が見えてくる。
この本では見えないものを疑う。
第一に担当記者の積み上げた情報が、積み上げてみたら誤謬を起こすもとにならないか?
あることに注目させておいて重要部分を隠す手段に使われていないか
第ニに事件の重要性を新聞社内部が決めている。
編集者が<コトの重さ>の判断をしている。
その判断基準は限られた紙面の量、その日に起きたことの多さによって
新聞にゆだねてしまった価値観の優先順位がある。
第三に経営母体の中立性に疑問がある。
政治家は得票数で評価されるが情報は金銭で評価される。
世襲政治家の良し悪しは人物本位と言う価値判断はシステムの問題で同じようにマスコミも評価されて当然だろう。
経営に参画している人の透明性は確保できているのか?
それは信頼という財産をどれだけ積み重ねられるかだ。
既得権や独占する姿勢から利益を負うことを最優先にしている民間企業と何が違うのか?
つねに問われ続けていると考える。
報道現場の話と新聞社の経営と関連していないとは決して言えない。
新聞社を根にしたマスコミという組織は、ジャーナリストを育てる養成機関だとすれば、一人前になって個人として情報の優先順位を紹介したり、加工して意見を発言したり、教養としての文筆活動の道を探るのはどうか?
情報提供の多様化によって、ユーチューブでも、ブログでも趣味に関する情報提供は多い。
いま、マスコミに求められているのは、主義主張ではなく、教えを広げるものでもなく、客観的エビデンスに基づく事実、つまり数年後に見ても役立つファクトだと考えるがどうだろう?
すべては公文書と同じくらいの事実記載と記録を基にした議論の基礎を支える体制に徹したらどうだろう。
そんな判断材料としての情報を求めているのではないだろうか。
今の新聞には情報の質も量も不足している。
(引用)
現在の党の中にミソジニー構造をリベラル派の政治家として変えたいと心底思うなら、今こそ強く主張してほいいと思う。
応援団はたくさんいるのだから。
著者は応援団なのだろうか?
少なくとも私はそうしたスタンスでの情報を欲しない。
判断は読者がする。
そのための事実を淡々と積み重ねてゆく情報提供者が欲しい。
なぜ官房長官会見から外されたのかを深堀して、だれもを納得させる事実の積み重ねが欲しい。
信頼できる情報の提供者としてを考えれば、今回著者の取り上げた官房長官会見の件は、政治とマスコミには昭和のにおいがありすぎる。
そして
著者はNIKEの企業覚悟と表現の可能性を上げる。
ならば、内部から大きな変革を成し遂げるしかない。
スクラップ&ビルドのほうが組織は作りやすい。
100年以上続く会社の多いことを誇る社会では変革は簡単に進まない。
進化するには内部から変えるしかないという政治家もいる。
著者の属する組織をまず変えることが出来なければ、新聞記者という職業の将来は厳しいものになる可能性が高い。
著者の言うことに不満があるわけではないが消化不良気味だ。
理由
勝手に作った個人的な3つの疑いの仮説に対するヒントをこの本から得られなかった。
3つの仮説とは
①戦後、早い時期に自由民主党は自由党と民主党に分かれ、議論を深める引き金にするべきだった。
②新聞社とテレビ局の連携はオークション理論華やかのころに対応すべきだった
③GAFAMのような企業は日本では生まれない
記者が組織の一個人というには社会に影響を与えすぎる。
事実の報道に個性はいらない。
マスコミとは権力に対するチェック機構だ。選挙で選ばれているのではなく評価は購読料となる。
であれば、マスコミの役目は事実の記録係に徹することではないか?
世の中に、中立というスタンスはあり得ないし、信念や政治的信条や、教養や新しいスキルを身に着けるための手段は多くなり、意見を言う発信者はマスコミに限らなくなったし発信手段も増えている。
そこでより重要だし、求められるのは事実の蓄積だと思う。
情報が多すぎて‥‥本当だろうか?
情報源が一つしかないのにそれをさも自分だけが教えてやるというような態度は昭和で終わっているのではないか?
絶対に言わせてはならないのは<サンゴは大事にね>という一言だ。
誰にでも間違いはある、でもこれは間違いでは済まされないプロの価値観に疑問を持たせてしまうからだ。
作りたい世界を語るのは政治家で、語らない政治家は無能者の烙印を押せるような事実を提供するのが報道だと思う。
今も新聞を購読しているが、30年前より進歩したのか?
個人の判断材料としての情報提供の新しい形は提案されているのか?
新聞社が何より求められているのは、ヒトの育成だろう。
一人前のジャーナリストを育成し、送り出すための組織として生き残りをかける必要がある。
政治家もジャーナリストも切磋琢磨しないと・・・・・
参議院を<科学者議会に>などという妄想が新聞の第一面を飾ったりする。
何がポピュリズムだ!
政策提案が実現できない、つまり政治家を説得しきれない専門家なんて必要か?
法治国家に住むジャーナリストなら
<民主主義を何だと思っているんだ!>と言ってくれるくらいの気概が欲しいと思うのはどうなんだ?
マスコミが劣化し、社会変動についていけないという自覚はまだない。
<大洋を群れずに回遊する>
信頼とは何かを考えながら、書籍を媒介にして、生涯学習が行動の糧とするような前向きな発言を心掛けています
