「専門知を再考する 著H・コリンズ+R・エヴァンス」を読む

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<専門家vs素人>を超えて

科学技術の浸透した世界で物事を決めるとき、専門家を無視することも、絶対的に信頼することもできない。

では、専門家とは何か。

会話や「農民の知」から、査読や科学プロジェクト運営まで、専門地の多様なありかたを初めてトータルに位置づける。

対話型専門地の可能性に光をあて、現代社会に展望を開く名著。

序章  なぜ専門知か

第1章 専門知の周期表(1)・・・偏在専門知と特定分野の専門知

第2章 専門知の周期表(2)・・・メタ専門知とメタ基準

第3章 対話型専門知と身体性

第4章 言行一致・・・色盲、絶対音感、重力波についての実験

第5章 新しい境界設定基準

終章  科学、市民、そして社会科学の役割

補論  科学論のいくつかの波


 

序章で現状認識と問題提起

箇条書きでポイント(引用)

ü  われわれはもはや科学技術と一般人の意見との釣り和えをどうとるべきかわからない

ü  われわれは専門知についての新たな社会学を必要としている。

ü  専門家の地位獲得に関する社会学は既に存在しておりそれが示すところでは、専門家として目されるようになることは、実体のある専門知を所有している事とはほとんど何も関係していない。

ü  専門家コミュニティで合意形成に先立って科学技術をいかに扱うか問い問題なのである。

ü  科学の「支配層」と広州との対話を増やしてゆくことは今や日常的に要求されておりそれは科学技術に関する意思決定への参加増大していることと軌を一にしている。

 

 

内容に関しては、本書の構成で紹介

(引用)

1章で専門知の分析に取り掛かる。専門知の周期表を起点とする。

2章で新しいカテゴリーの専門知の一つ「対話型専門知」を評価分析する

3章で対話型専門知というアイデアを哲学的に吟味し(中略)対象としていくつかのアプローチがある

4章で対話型専門知という考え方を検討するためにデザインされた「模倣ゲーム」を報告。

5章で科学技術と芸術、科学と政治、科学と疑似科学のどに境界を設定する新たな基準、この章で科学技術と他の文化的な試みとに違いに関する議論に活力を与えたいと思っている。

 

専門知とは何だ。

この本で注目してと言っているのは対話型専門知で

何を読むべきで何を読まなくてなくて良いかを知るためには専門家コミュニティとの社会的コンタクトが必要になる。

 

専門知の紹介

最上位の専門知は貢献型専門知であり何らかの活動を適正能力で行うために必要なもの(熟慮し経験と暗黙知を持っている)

その下位に対話型専門知があり、実践的な能力を欠いたまま特定の専門領域の言語を使いこなす能力。

社会学者や人類学者は言うに及ばず、査読者から上級ジャーナリストにいたるまで、多くのの役割に内在しているのだが、これまで明示的なやり方で議論されてこなかったように思われる。

 

幾つかのキーワード

専門知の周期表

貢献型専門知

対話型専門知

暗黙知

偏在専門知

チューリングテスト

正当性の問題

形式の意図

科学の意味に関する解釈

 

監訳者がこの本の終わりに残した言葉

(引用)英国でコリンズとエヴァンスが本書を上梓したのは2007年だが、日本において本書が本当に読まれるべきものとなったのは2011年3月11日以降であろう。

日本の科学額技術社会論はこの日を境に元気を失っているように私には映るのだが、その原因は、安全・安心論に終始して、本誌の如き、両極に振りきれずに事柄の革新をつかもうと試みるような、本格的な科学論(あるいは、知のありようをめぐる理論)が公共の場であまり語られなかったことにあるかもしれないとも思う。

難局を前に何かと局所的最適化に走りがちな日本の知的風土に対して、本書が蟻の一穴とならんことを監訳者として切に願う。

 

個人的な読み

「知の創造」に関して著者は貢献型専門知という呼称を与え、創造方法の遺伝方法は確立しているとしている。

想像するに大学や企業の研究室で研究の作法や評価方法一次資料の読み方などのトレーニング、加えて専門家のグループのお墨付きのような査読に関しても)

いわゆる知の積み上げに関する作法が確立されている。

不満はこの知の創造にあたっている研究者の心の位置が<安心・安定>につながれてしまってはいないかという不安がある。論文数が少なくなっているのは量が質を磨くことから考えて<訳者奥田太郎の言う元気を失っているのではないか>に共感しているところがあるがより逞しい研究者を望む。

その役割はこの本で言う対話型専門知を持ったヒトの活躍だろう。

世に素早く研究成果が物語として波及すれば研究者はおのずとスピードを上げるしかない。

そしてこの本では触れられていないが受ける側つまり説得される側の要望だろう。

説得される側の疑問、質問が研究方向に影響を与え、やがて知は平坦化する方向に向かう。

 

近年、科学的根拠を基に政策が決定されることが多くなった。

それは社会が説得を求めるようになったからで、政治家も専門家の意見を参考にとかいうようになった。

つまり「知」のサプライチェーンが長くなってしまった。

創造された「知」は一般社会人に理解されるには長いサプライチェーンが必要でその説得に対話型専門知という新しい役割を持った知が登場する。

それを著者は<対話型専門知>と呼ぶ。

この本が重点的にとりあげている対話型専門知については、伝える遺伝子のような形はなくその時々の環境で生まれるようだ。

専門知の周期表にあるのは「知」がメタであるか偏在的であるかによってその対象者数はちがう。

研究者が少ないからと言って重要性に違いはない。

今、社会の変化スピードが急速に上がって、新しい知が急速に普及することと説得が求められている。

ということは当然新しいニーズが生まれていることになる。

 

この本の元が出版されたのは2007年ということで気になる本がある。

1990年代に<テッピング・ポイント>という本に、<あるアイデア>があった。

私たちの直面している諸問題の多くは伝染病のような行動形態を持っているとし、社会的伝染の各段階を担う人をコネクター、メイブン、セールスマンと説明している。

イノベーターの頑張りでは伝染は起きないがそれぞれの役割が上手くつながった時に社会的伝染が起きることを紹介している。

専門知を再考するでは<専門知>を社会はどう活用してゆくのかに関して検討されているがそれは社会がどう受け止めるかにかかっているというより対話型専門知で世に伝える役割を担わせることになるようだ。

例えば

原発処理水排出の何が問題なのか?コロナ後の増税は必要なのか?本当に温暖化は問題なのか?理性で世の中は動かないのか?など社会の発する質問は様々だ。

政治や行政が社会の在り方や方向を決めるときに、そして個人の判断材料としていろんな疑問を感じるときに答えが必要なわけではない。

必要なの<その時点で集められる限りの判断材料>は提供されるべきだ。

そして議論されている姿もその判断材料として提供されることが望まれる。

そう考えるとこの本で提供された対話型専門知というフレームで語る<知>はタイムリーだと思える。

その姿は<群れない回遊魚>のように広く見渡し、会話することで存在を証明する。

多くの<蒸れない回遊魚>を世の中は必要としている。


役立つ<知>を考えながらYouTubeから学んだので次回にそのことを考える。

 

おまけ

いろんな人が発言しているので後追いともいえますが

高橋洋一教授が最近内閣官房参与の職を辞したと聞いて個人的感想。

専門知を確実に持ったヒトの一人と認めている私にとって今後の活躍を期待したい。

辞任理由にかんしていろんな形で報道されているので省略。

2つの疑問。

1つは、政治家はこうした専門知を簡単に手放してしまってもよいほどの人材確保ができるのか?

もう少し強くいえば、与野党ともに専門知を使いこなすだけの力はないのかという疑問がある。

なぜなら、今回の発言に関しての受け捉え方があまりに表面的で深まる議論に進んでいかない恐れがあるのではないか?

そんな事で政治は進化できるのか?

踏み込めば政治不信が一般人だけでなく専門家からも非協力的態度が生まれてしまい、進化していかない社会そんな不安が生まれる。

2つ目、高橋洋一教授に対する疑問

これだけの見識を持ちながら、<ヒトを動かすには説得よりも納得、納得よりも共感が必要である>事を知らない筈がない

であれば、教授の意見を求めた人はそれまでのヒトだということ

これもまた教授は知らなかったはずはない。

求められれば答える。

それが専門知を持つ者の矜持と理解して良いのか?

解決すべきと言いか取り組むべき問題に突破口を開くというエネルギーは期待してはいけないのかという疑問

 

いずれにしても一つの見識としての高橋洋一チャンネルへの興味は継続する。

 

 

 

 

信頼とは何かを考えながら、書籍を媒介にして、生涯学習が行動の糧とするような前向きな発言を心掛けています

 

 

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