「陰陽師 飛天の巻 著夢枕獏」の中の一言で考える

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百機が群れる平安京の闇の果て

妖怪が、魔物が、怨霊が都のあちらこちらに跋扈する。

立ち向かうは希代の、陰陽師・安倍晴明と笛の名手・源博雅。

傑作7選

「あな、くちおしや、久方ぶりに、人の肉をば喰らうてやろうと思うたに…」

「かくなりし上は、この牛の肉おば喰らうてゆこうぞ」

(中略)

牛の身体には、びっしりと小鬼がたかって、その肉を喰らっている。

ほどなく、意志の声はやんで、ひしひしと牛の肉の、鬼たちに食われる音ばかりが響く。

がつん、

こつん、

ごり

しばらくしてその音がやんだ。

(本文より)

本文の中の気になった<一言>

「そうさ、博雅という才能、あるいは(しゅ)は、この晴明という呪にとっては、対になっているものではないか。

博雅という呪がなければ晴明の呪などはこの世にないも同然かもしれぬぞ」

嬉嬉として晴明は言った。

 

妄想する。

言うまでもなく「陰陽師」は夢枕獏の代表作の一つだろう。

この本のおすすめどころは行間とかページにある活字で埋めてない空間を読ませることにある。

(勝手なな持論ですが)ゆえに文庫本よりもソフトカバーの大きな方がよりよい気がする。

さて本文の中の一言で感じるには作者夢枕獏が、分身として安倍晴明を作ったとすると、一人では足りず

分身を2人に分けたのではないか、そして二人を会話させることで物語の奥行きを作ったのではないかと

妄想する。

それはそうだったら面白いのにという場面でがあったからだ。

宇沢博文という経済学者が2人居たらという妄想がある。

空白の10年と言われるアクター(活動家)の時期をもう一人の宇沢弘文が学者として活動していたら

ノーベル賞を取った可能性が高いとも思うが、それ以上に教育を変える原動力となったのではないかと妄想するからだ。

清明と博雅は夢枕獏の創造物でどんなに古典が応援しても作者の想像を超えることはない。

しかし宇沢博文はある意味社会が生み出している。

であれば宇沢弘文を作ることはできないが、生まれる可能性を組織化することはできる。

そんな妄想がまだ本の中にはあって、行動変容を起こす種が少ない可能性の中に生き残っている気がする。

固く閉ざされてしまう本という世界の中だからこそ、20年以上前に出版された本がそれを教えてくれる。

 

 

信頼とは何かを考えながら、書籍を媒介にして、生涯学習が行動の糧とするような前向きな発言を心掛けています

 

 

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