「教養主義の没落 替りゆくエリート学生文化著竹内洋」を読む

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反知性主義が台頭している理由がわかる

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反知性主義が台頭しているとは

<知っていること>よりも<行動している>人間の方が影響力は強いということ?

多くの脈絡のない疑問がわく本に出合う。

 

 

爪を立てる

ヒトの考えをお借りする。

上田紀行氏(東京工業大学リベラルアーツセンター 教授)の考ええる教養教育

(自由人としての素養を取り戻す、今こそ求められるリベラルアーツ教育より一部を引用)

大学における教養教育の重要性は、昨今よく指摘されることです。しかし、あえて「教養」という言葉を使わず「リベラルアーツ」と言い換える場合が増えています。それはなぜかというと、昔ながらの教養教育のイメージに引きずられるのを避けたい意図があるからです。二つの"教養"から遠ざけたい。一つは、大正から昭和に至る旧制高校のいわゆる教養教育です。もう一つは、戦後の4年制大学における一般教養。つまり専攻課程に進む前2年間の教養課程です。

前者のほうからいうと、大正から昭和にかけての教養教育は、西洋の古典や哲学の文献購読でした。当時の旧制高校では"デカンショ"などと呼ばれ、デカルト、カント、ショーペンハウアーなどの哲学に通じていることが教養の証だったのです。現実社会との関わりが希薄な、書物の中の世界に限られた教養でした。

 

大学教員は、大学卒業・終了者に何ができるか?との質問に大学は答ええなければならない時代を迎えていると個人的に考えている。

大学はそう多くの事を教えられると思うのは思い上がりだろう。

せめて生きる術や学ぶ術を教える短期教育担当であることを自覚させられるだろう。

一人前の行動者となり、一般社会で関係するヒトから共通認識としての教養が求められたり、自ら求める教養というのは生涯を通じて学んでゆくものではないだろうか?

教養のニーズが、竹内洋氏の本で示されたエリートの教養から、上田氏のように一般社会人の教養に変化しているのではないか?

そこで教養は必要とされないのではなく、リベラルアーツと名を変えて世界にも通用する共通言語になることを求められているのではないか

 

エビデンスベースという言葉が世に出回っている。

特に自然科学では<情報の共有がないと科学は進歩しない>という認識がベースにある。

最近<EBPMの経済学>という本が出版されているように人文科学系でも認められつつあるように感じるが、言うまでもなくまったく同じではない。

私流にいえば、自然科学に歴史はなく発見が全てである。

新しい法則は今までの積み重ねをすべて否定する可能性もある。

一方、人文科学は歴史的、地理的拘束性の上に成り立っており、地域の独自性をなくすことは難しい。

それでも共に求められているのは「知」の共有ということだろう。

教養が他人と話すうえでの共通言語だとすれば教養は進化していることになる。

社会科学も、自説を唱えることがオリジナリティを高めるという主張よりも共通認識は何か、お互いに共通土俵を確認し、その上に異なる建物を建てて差異を認め合うというようなことが始まっているのだろう。

例えば現在を捉えると、民主主義という大枠が共通認識としてある世界とそうでない世界があるという土俵の確認と、共有できる人とできない人の仕分けが行われつつある。

土俵はいくつもあって、地域的優先のある土俵、歴史的認識の強い土俵、そして経済的関係の強い土俵、市民連携による土俵など共通認識を生むグループとそれ以外に分ければ土俵はいくつでも作れる。

その土俵を額縁に例えれば、土俵がいくつあっても、複数の額縁を重ねてみることができれば世界は一つに見えてくる。エビデンスベースとは、分けて考え、統合して行動するよう求められているようだ。

 

あらためて教養主義は没落しているのか?

大学は著者の言うような、エリート学生が本当にいたのか?日本はみな貧乏で今まで抜け出したことはないのではないか?

学生時代だけが<知>を求めているわけではない。学ぶことを学生時代で終われるほど社会は甘くない。継続したスキルアップ、ブラッシュアップを社会から求められる。

それ以上にヒトは経験値が増すことにより目標が変化してゆくだろう。

それをさせない社会は社会そのものが成長するどころか退化してゆく経験をすることになる。

学生時代のいわば押し付けられた教養と生涯実践しつつ身につける教養ではとりあえず時間軸が違うと考える。

 

本の持つ特徴は<固まった知>であること。

変更できないから参考に値するし引用できる。

しかし時は止まる。

そこで出版社は2つの責任を負うことになる。

一つは、出版した本を継続して世に送り出す。これは問題ない。

もう一つは次に新しい<知>が生まれて世に広まろうとするとき、自社で出版できるとは限らない。

しかし自社で出版した<知>が古くなってしまった場合、それも再販している場合どうするのか?・・・・・・・・ここに新しい問題が生まれている。

読んだ本の問題解決のその先は?という読者の不安をぬぐえないストレスとどう付き合うか?

ニュースとして流れる映像ならば流れているだけだから、流れは次々と生まれる。

流れにとどまる杭は古すぎて時代遅れならば、骨董屋に手渡すか歴史学者の資料なるしかない、アクターの手助けになるには弱すぎる。

そこで出版社は質問を受けなければならない。

この本は、この本代は高いのか安いのか?それとも図書館に収まるのを前提とするのか?選択肢はそう増えているわけではない。

どんな本が売れるのかを考えるのと並行してその後の進歩に対してどう向き合ってゆくのかという姿勢をはっきりしておかないと、せっかく<固まった知>というステータスを得てもじり貧の未来しかないと言うしかない。

 

信頼とは何かを考えながら、書籍を媒介にして、生涯学習が行動の糧とするような前向きな発言を心掛けています

 

 

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