「公文書危機 著毎日新聞取材班」を読む
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表
隠す、残さない、そもそもつくらない。
「森友、加計学園」や「桜を見る会」の問題で明らかになった、公文書の軽視。
現政権にとってエスカレートする民主主義崩壊の実態に迫る。
裏
「総理をやめるとき、シュレッダーを使って、かなりの書類を校庭で破棄しました」(本文97ページ)…鳩山由紀夫首相
「総理官邸は記録を残さなくてもいい“聖域”になっている」(本文143ページ)…御厨貴
「総理との面談記録を残しておく発想はない」(本文183ページ)…現職官僚
表紙裏
霞が関にはやむから闇に消える文書がある
国策決定の過程が文字にならず、あらゆるところで検証が不能になっている。
日本の公文書は危機的状況にある。
省庁間にはびこる因習、霞が関の「魔物」の正体を追う。
いくつかの証言(下線部分引用)
福田康夫元首相
首相の記録はなぜ残す必要があるのかと改めて聞くと、言葉に力が入った。
「日本は民主主義の国だからだよ。主権者の国民が正確な事実を知ることが出来るようにする義務がある。もう一つは、日本のかたち、つまり歴史を残すことだ。歴史の解釈をめぐって後世の人がなるべく迷わないようにする。外国から見ても、日本はこういう国と解る証になる。公文書は一つ一つが石垣の石。それを積んで城ができる。総理の記録も一つの石だが、ほかの石より少しだけ大きいということだね。
三宅弁護士
首相と省庁幹部の面談は、公文書管理法4条の言う「意思決定の過程」そのものなのだから、方針に影響があったかどうかにかかわらず、記録は作るべきだ
御厨貴東大客員教授
鑑定は記録を残さなくてもいい“聖域”になっています。極端に言えば政治家夜間りぉゆは青売り大臣は間違った決定をしないという前提に立っている。だから総理の間違いを厚から検証されかねない記録は残したり後悔したりすべきでないと考えているのです。こうした意識は戦前からのもので、日本の政治文化として定着してしまっています」
厚労省飯田室長補佐
省のトップである根本厚労相が報道陣に面談内容を説明した事実を伝えても「仮にそういう発言があったとしてもテーマは明かすことが出来ない」と取り合わなかった。➡「打合せ記録」はつくらず、「レク資料」はあるのに全面不開示とし、テーマまで隠す。
これは国民生活に大きな影響を及ぼした不祥事への対応が、密室になかで決められたことになる。
著者のまとめ
最終章<焚書>にこうある。(引用)
配線が確実になると、閣僚たちが記録の廃棄を決め、官僚たちが次々と書類に火を放ち、日本の歴史を灰にしてしまった。それは国民を守るためでも、政府が戦時中に国民に求めた「お国のため」でもなかった。戦争とついこうした政権幹部や官僚たちの責任逃れ、保身のためだったとしか言いようがない。
あれから75年、あの無責任な体質は何も変わっていないように見える。
爪を立てる
人の信頼を3層に分けて考えることにしている。
人格信頼(親子・親族、近所付き合いといった直接知った顔の人間関係)
システム信頼(社会にある規範・制度・法律といった守ることで守られる相互信頼制度)
情報信頼(知を信頼の材料として活用する)
分類に照らせば、現在権力があって、社会を支えているのはシステム信頼だろうと考えている。
人それぞれの環境を考えれば、先代の事業を受け継ぐ人は人格信頼のウエイトが高いだろうし、投資中心の生活をしていたり「知」の創作を職業にしていたりする人は情報信頼のウエイトが高いだろう。
しかしどちらも、かなりの部分でシステム信頼の部分に頼っている。
そして官僚や政治家はこのシステム信頼を支えたり強化したりしていると一般には考えられている。
そのシステム信頼の強化、維持の部分に問題があるとすれば、システム信頼そのものが弱体化する運命にある。
であれば、再度今のシステムを点検し強化するか、それとも新しいシステムを組むか
選択肢を広げるしかない。
確認の必要がある。
l 政治家は自分の行動実績に対して歴史の評価を受けたいと考えないのだろうか?
l 官僚は、現実を生きることと並行して歴史を作っているという意識はないのだろうか?
l 官僚は政治家に評価されるというがピラミッドの頂点は一人なので、それ以外の自己実現を考えないのだろうか?
l 福田元首相の言葉がなぜ、政治家の共通認識でありシステムとして定着していないのか?
今の議員が接する社会問題とは、それぞれに意見を戦わせるにしても、それなりに共通項を創り出し、協力や連携ができ、それぞれの将来の姿を考える時間が作れるのではないか?というのも、今ある社会問題で敵か味方かを分けるほど差のある問題はなく、お互いの価値観の優先順位を並べれば解決できる問題の方が多いのではないか?
すべて記録し、将来すべてを検証できるシステムはできると考えるが今の政治家に取り入れる意思はあるか?
歴史的拘束・地理的拘束という社会が持つ遺伝子のようなものから考えれば、敗戦のときの問題を解決しようという遺伝子よりも、責任転嫁できる、もみ消しができるという遺伝子のような歴史的拘束が日本人を縛ってしまっているように見える。
マスコミは75年経って、これからどんな仕事をしなければならないのか?
政治の道を生きている人の生命力とどう付き合ってゆくのか
時代を切り取り、記録を作る姿を想像しても、論拠としてある、公文書管理法というルールがシステムとして動かないのは何が問題なのかを解決しない限り、その道の専門家として生き残れないのではないか?
政治家が滅びるよりマスコミの方が先に滅びる可能性を感じないか?
一人ブレインストーミング
l 選挙活動も、個別訪問禁止などの古臭いものではなく、いつでもどこでも政見放送を延々と見られるようにし、質問も双方向で受け付けられる。政治活動は制限されることなくアピールできる環境が整う。
l 電子投票ルールができて、その場限りの人気投票になっても、今説明責任を果たしていない政治家や情報公開してこなかった政治家の成果に関するまちがった評価が生まれたとしても、意思決定過程にどう参加していたかをしめさない限り、本人が不当な評価に反論の機会は与えられないと想像できないか?
l 人の考えを変える手段として最も有効なのは世代交代だろうが、それでも75年変わらないなら今後も変われない。
l 市民が一次資料に接することが出来なくても、政治の選択過程を変えようとするのであれば、こうした本が出るたびに身銭を切って<イイネ>」サインを送るコトはできる。
意思表示はいろんな形で表現したり、感じたり、見ることが出来るので今は75年前とは違うと言える。
l その道の専門家、有識者と称する人は<パートの公務員>か?それとも本当に社会を考えた発言をしているのか?
l 有識者委員には大事なところは教えず、議論になるネタはできるだけ出さないという会議に名を連ねた場合、どんな資料で、どんな進行でどんな結論であったかを、その都度その人なりに証明しておかないと、後々御用学者だの官僚組織の下請けだのと言われても反論ができない。ないしはそうした仕事を請け負っていることをステータスとして誇ってゆくしかない。
こう考えたがどうだろう?
これから先、国というか行政は、人の生活にもっと深くかかわってくるのか?
それより気になることがある。
インフラを維持してゆくだけの金があるのか?こちらの心配の方が現実的と言えそう。
この本にあるのは一次資料としての価値と問題点の抽出。
この本に欲しいのは、稚拙なサンプルでもいいからこれからどうしたらよいのかという問題解決の糸口の提示。
残念ながら、まだ次の社会システムを提案した人を知らないので、今を改善してゆくしかないのだろう。
継続して問題解決の糸口を提案する一次資料作成に期待する。
信頼とは何かを考えながら、書籍を媒介にして、生涯学習が行動の糧とするような前向きな発言を心掛けています
