「幸福な監視国家・中国 著梶谷懐・高口康太」を読んで中国を考える

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山形浩生氏推薦

政府・大企業データ支配、新疆ウイグル問題、そして香港デモ……

いったい何が起きているか!?

アルゴリ図鵜に支配される14億人の人民、

各地に出現した「お行儀のいい社会」…

第1章 中国はユートピア化デストピアか

第2章 中国IT企業はいかにデータを支配したか?

第3章 中国に出現した「お行儀のいい社会」

第4章 民主化の熱はなぜ消えたのか

第5章 現代中国における「公」と「私」

第6章 幸福な監視国家のゆくえ

第7章 道具的合理性が暴走するとき

一体何が起きているか!?

表紙裏

習近平体制下で、人々が政府・大企業へと情報・行動記録を自ら提供するなど、AI・アルゴリズムを用いた統治が進む「幸福な監視国家」への道をひた走っているかに見える中国。

セサミ・クレジットから新疆ウイグル問題まで、果たしていま、何が起きているのか!?

気鋭の経済学者とジャーナリストが多角的に掘り下げる!

 

著者2名専門分野別に章を担当とのことです。

ここだと思うところ

著者の言う‥引用(p184)「ある社会にとってどういう目的を追究すべきなのか、ということを公共の場における議論を通じて吟味しながら、あるいは歴史の中で人々が試行錯誤しながら形成されてきた判断基準をもとに、より広い合理性の観点から判断するような仕組が、法の支配や民主主義がきちんと機能している社会には本来備わっているはずです。」‥

これは民主主義を標榜する国が、歴史的な過程を積み上げた成果だと言える。

一方、中国はその西洋の積み重ねで作る仕組みという部分を経験しないで、言ってみれば積み上げ部分を飛び越えて現代にいる。

その現代とは技術革新を利用し経済的な平等を目指しているが判断基準の部分は抜けている。

(例としてアナログの有線電話の時代無しにデジタルの携帯電話の世界に入るような感覚?)

公正な裁きを実現できるのは教養と人格的にも優れている一部の人だけで、生民の生存権は少数者の専制に対し寛容であるという価値観の社会に、突然監視社会が生活の中に入り込む。

人との関係よりもAIの判断を信用するということを受け入れてきた。

<認めてもらえると>いう、どこにもなかった信用を与えてくれ、その方が生活しやすいなら<理解できないがとりあえず従っておけば利便性が高まる>というのが現実だと考えている。

権力者が便利な生活や豊かになることを提供するのと引き換えに権力者への批判を徹底的に押さえこむ。その手段としての管理・監視技術が発展してゆく。

 

技術は価値観の違う社会にイノベーションは共通する監視技術を提供している。

日本社会はアジア的なものを含んでいるがゆえに一層、近代的統治システムや市民社会、すなわち「市民的公共性」が機能しているか、メタ合理性の基盤の上に成り立っているかが問われることになる。

 

著者はデータ処理の分散化やシステムの民主化がそれ自体では必ずしも政治権力の分散化や民主化をもたらすものではないという現実をふまえて、今の中国を見つめながらどういう社会を創るのかという議論が我々に必要になると考えている。

加えて日中関係が政治や経済に加え「技術」を軸に動いてゆく可能性を感じている。

<中国は幸福な監視国家を目指していてその本質は「最大多数の最大幸福」の実現のた

 

著者は、こうまとめている

「幸福な監視国家(社会)」の本質は、「最大多数の最大幸福」の実現のため、その手段として人々の監視を行う国家(社会)ということになるかと思います。>

それはほとんど民主主義の国が求めている幸福と違わない?

 

爪を立てられるか

中国の人がなぜ、監視国家を許しているかというと<公正な裁きを実現できるのは教養と人格的にも優れている一部の人だけだ>と言う価値観のもとに、中国社会に管理が可能な技術が導入され、生活が豊かになり便利になるための手段として管理社会が発展してきたという著者の説明に共感する。

(ヒトより機械というのはちょっと…と感じるよりもフェアな審判!)

将来は別にして、今日まで中国の現情は統治する側とされる側の溝がくっきりあって、多くの人は権力者に虐げられているとは感じず、豊かな経済生活を目指して来て最大多数の最大幸福を実現してきたのでなければ今の社会は成り立っていないのだろう。

 

最大多数の最大幸福から漏れた少数者の問題がこれから大きく取り上げられる可能性は高いし、得たモノの代償として失ったモノは何か感じ始めている人もいる。

しかし他の社会と大きな違いがあるとは言えない事が問題だ。

 

著者のテーマについて

(p240)監視社会化をもたらす新しいテクノロジーの導入についての議論は始まったばかりです。どのような形で制限、あるいは批判を行ってゆくべきか、これからきちんと議論を深めてゆくべきでしょう。

(p241)今後の日中関係が政治や経済に加え「技術」を軸において動いてゆく可能性を暗示させるものです。

 

中国は監視社会にかじを切って技術は進歩し見方によるが世界の先頭を走っている。

政治的には安全で豊かな社会を提供する代わりに統治者批判は断固許さないというスタンスを取る。

直線的に進んでいる。

著者の言うように議論は幅広くより深める必要がある。それはどんな技術を開発するかではなく、どんな社会に向かいたいと願うかだろう。

ここが言いたい

政治・経済に加え不確定要素としては政治や経済をうごかす力として技術を考えなければならない。

この場合の技術とはビッグデータや監視技術を駆使して社会を誘導するコトを想像させる。

結果、誰であれ、専門家や政治家に任せるのではなく、全員が考える。

直線的には進めないところに意味と難しさがある。

 

中国のように人口が多く、国家資本主義でイノベーションを起こしてゆく先は非常に効率がよく、人権にかかわる問題のハードルが低いため情報収集からビッグデータの作成も早いだろう。

地理的に近くにあり、歴史的にも、精神的にも文化的にも影響を受けてきた国なので、その影響はこれからも少ないはずはない。

目的を持った技術開発が進んでいる中で、技術が人を変えるのか、人が技術を使いきれるのかなどという大きな問題が市民全体に問われるのは初めての経験ではないのかと思わせるくらい社会の変化がありそうだ。

 

日本がアジア的なものを含んでいるがゆえに中国をより深く理解できるのではないかと考える反面、市民社会を育ててゆくという作業が本当に取れるのかの確認がいわゆる本家の民主主義国からより厳密に問われることになる。

いわゆる板挟み状態が生まれつつある。

 

民主主義というのは、お題目にしないためには時間も、金もかかる脆弱なシステムだから厄介だ。

 

AIがここまで来ちゃったと悩んでいる人、

AI以後を考えている人、おすすめです。

 

信頼とは何かを考えながら、書籍を媒介にして、生涯学習が行動の糧とするような前向きな発言を心掛けています

 

 

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