『50年目の「大学解体」20年後の大学再生 編著佐藤郁哉』を読む

副題:高等教育政策をめぐる知の貧困を超えて

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執筆者

刈谷剛彦 オックスフォード大学

川嶋太津夫 大阪大学

Robin Klimecki ブリストル大学

政策根拠と未来へのビジョンなしに進む「大学改革」に強く警告し、再生への理念を示す。

 

深刻化する財政危機と志願者減少を背景に、海外の大学と同様の「国際ビジネス」への道を歩むように見えるぢ額の現実。その「現実」の表面のみを見て、大学の研究教育を単線的に評価する高等教育政策…

この時代になぜ、何のために大学・学術があるのかという根本的な問いが欠けたまま進む「大学改革」は、大学間の序列を固定化し、教育研究の全体的な地盤沈下をもたらす。

エビデンスにもとづく議論と徹底した帰納法的アプローチで「高等教育政策における知の貧困」を乗り越え、大学再生のための理念的手掛かりを示す。

 

この本のテーマ

(P1)病んでいるのは大学なのか、それとも大学改革なのか?本書全体を貫く問題関心を一言で言いあらわわせば、このようになるだろう

最終頁

引用P392)また、もし日本の大学のおかれている現状が本当に大学改革を唱えてきた人々が主張するほどに危機的なものであるとするならば、それは、もはや見せかけの「大人の対応」が許されるようなものではないはずである。

その点からしても行政関係者や大学関係者たちは、不毛な蒙昧主義的な発想や作文技法と決別し、自分の頭で考え抜いたうえで結論を出し、またそれを借りものにしない自分自身の言葉で表現して行かなければならないだろう。

それはとりもなおさず、大人たち自身が、子どもたちの未来をより希望に満ちたものにするために「自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、より良く問題を解決する資質や能力」の獲得を目指していくことに他ならない。

 

利害関係の全くない第三者にして、この本の題名に期待して4104円支払った者としての感想

誰に向かって書かれている本かわからない。文部官僚?、大学職員、大学在籍研究者、一般読者?

本当に私は部外者だなーと実感させられる本です。

 

最終頁を読むと50年間の集大成ではなく、20年後こうした姿になっているという姿の提示でもないとしか受け取れませんでした。

 

この本の題名から期待した答

①     50年で大学はどう解体されたのか?

②     20年後の大学はどうなっているのか?

③     子や孫は日本の大学に行かせて大丈夫か?海外留学させるべきか?

④     社会に出て役立つ教育というものををどう考えているのか?

⑤     日本で研究者は育つのか?(研究者の流出はこれから増えるのか?)

⑥     研究者の賞味期限は何歳くらいか?(その後大学管理者として、後輩の育成者としての道はあるのか?)

と、ごく一般的な質問に答えてくれているかと期待していました。

 

この本への感想

1.      この本に書かれていることは問題であって解決策ではない。

2.      既存のパラダイムは現状にそぐわなければ寿命であると判断される。

3      産業界がキャッチアップ以降オリジナルが出来ず低迷して失われた30年と言われてきたが、教育界もそうなら、日本全体が失われていて次に目を出すのは教育からしかないのではないか・・・・・いつからか技術立国が観光立国になってる。

 

 

この本で確認できたこと

Ø  国が大学のグローバル化を目指している事

Ø  国は財政難から重点支援を行い選択と集中を進めている事

Ø  国際化する社会科学系研究者の中に旗振り役と脱皮型、逃げ切り型研究者がいる事。

Ø  REF導入で落ちこぼれる研究者が出そうな事。

Ø  上に政策あれば下に対策がある。

  問題があってもそれを解決する可能性がないという暗黙の前提の存在があるのか?

Ø  研究者と教育者には見えない(?)差別がある。

Ø  多分ここが根本的な問題だが、教育の重要性について価値観の共有はあっても研究費を提供する行政、最高の知を持つ研究者・教育者、そして教育の場を提供する経営担当者の3者が意見の一致を見るまでとことん話し合っていないか、3者のベクトルを一つにできていないのではないかという疑問です。

 

この本から希望を持った部分

引用(P157)地方では本来の存在意義を示すうえでは、大学ないし大学セクターはその総体として社会にとって「知の灯台」「良識の府」であり続けなければならない事もまた、自明の理であろう。

そのためにも上からの改革ではなく、下からの改革というべき、そしてそれが可能な最期の時を迎えているのではないだろうか。

 

地方に限定する意味があるのか?

あるとすれば都会では例えば企業などが研究室を持ち大学以上の環境を整えているというような例があったとしても、

それは効率を考えているのであって、教養として「一人の人格」が求める「知の提供」を考えれば区分は必要ないのではないかと思います。

 

「知の灯台」「良識の府」としているためには、どんな世代にも、ある学部を卒業したら終わりではなく、幅広く、深く知の継続した提供ができるよう変化してゆくことはできるのではないか?

専門課程を学べる例えば修士課程rレベルの学習体制が組めるのではないだろうか?これなら一大学の取り組みで具体化できる。

 

最後に、この本の題名は内容に合っていない気がする。

解決しなければならない問題は根本的な価値観なのか、小手先の対策なのか?

個人的には既存のパラダイムの延長では無理があるのではないかと考えている。

 

信頼とは何かを考えながら、書籍を媒介にして、生涯学習が行動の糧とするような前向きな発言を心掛けています。

 

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