生涯学習を考える第2回。
最近応募して地域の歴史を学ぶ会に出席して改めて感じたことがある。
旅行に行くと史跡観光地に案内ボランティアがいて、特に郷土史家と名乗る人や、地域の歴史を勉強して案内をしてくれている。
何度か旅行でそうした人に出会い、お世話になった。
生涯学習を考える時に2種の学習があるように考えている。
第一に修了書を希望する人やスキルアップを期待する人が得られる充実感がまずある。
第二に「生涯学習を考える」で示したように生きてゆく上で求められるスキルとは違った、とりあえず生活に必要なスキルではない、言い換えれば「損得ではない枠組みで考える」好奇心を持っている人が一定数存在する。
さてその好奇心は2種類にわける。
一つは経験してきたことを、知識を手段として体系化したいと願う好奇心を具現化する好奇心である。
体系化してゆく好奇心というのは、観光案内をしてくれる人の生涯学習に近い。
自分史に合わせた統一感のある学習で、起承転結がしっかりしていて、誰にも納得できそうなことの<詰め>だったり、より細部に光を当てた作業となる。
結果としては、ほかの人が聞いて納得のできる内容となり、調和がとれている。
もう一つは、今、興味ある事物に向けて知識を深め行動手段を探す事なのではないかと考える好奇心である。
経験のある事柄や結果が予想されることではなく、解決されていない疑問や、子どもが時折発する鋭い質問、または学者が追いかけている疑問だったりする。
その問題を解決できるかどうかわからないが、例えば20代の研究を目指す人が一生をかけて研究するテーマとする問題であればどうするのか?
先の短い人ほど、予定された答えのない疑問に挑戦する時間が少ないので、いわば学習途上で野垂れ死にとは言わないが、結果を出せずに終わることの方が多いだろう。
そんなことを考えるのは、放送大学修士課程のガイダンスで、目標をしっかり決めて、あまり的を広げないで、論文を書き上げることに集中して下さい。という話をされたからである。
素直に聞いても、いろんな疑問に引っかかって横道にそれて挫折したという先輩が一定数いたのではないかと想像させる。
これが本当であってもその人たちは授業料を払って学習したことを後悔しているのか?
その答えを放送大学から聞いたことはない。
そうしたアンケートを受けたこともない。
と言う事は、判らないということだ。
求めている知的好奇心に対して答えるだとすれば、論文を書くだけの力が必要なのであってそれは入学させるかどうかの判定に委ねるしかない。
一方、学生にとって自分のテーマが遠大であれば、その問題を解決するためのサポートが有ればよいだけの事だ。
最近リベラルアーツを語る本数冊に目を通した。「リベラルアーツの学び方」大人になるためのリベラルアーツ」「教養教育と統合知」
世界の共通教養としての学びがないと、自分のテーマに答えることが出来ないのであれば、当然論文は相当の間未完成となる。
それとも修士論文完了者の%が大学の評価になるのだろうか?
授業料を払っている学生の満足度を考えれば、学位を授けるだけではなく、満足度アンケート結果を呈示することで生涯教育をより充実させることができるのではないだろうか。
そうした懐の深さを生涯教育というのは求められているようにも感じられる。
追加
①放送大学でいくつもの学科を卒業している人がいる。その人はリベラルアーツを求めているのではないか?
⓶大学に籍を置くという満足感を維持するためになるべく単位を取りやすい科目を選択している人が多数いることも事実。